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2018年3月29日 (木)

杵築大社領の本家と領家10

 課題として残していた①年未詳五月二五日領家中納言僧都御房袖判実政奉御教書と②一〇月二八日沙弥法願書状について検討する。鎌倉遺文の編者竹内理三氏は①の冒頭の「去年御代始検注段米」から、後宇多天皇即位の翌年=建治元年のものとした。ただし、これは当時の領家が松殿兼嗣であることと矛盾しており、成り立たない。本家が安嘉門院の死によって亀山院に交替した弘安六年九月四日以降のものである。その直前の八月日には兼嗣が鰐淵寺僧維孝に杵築社法華経田五段を宛行っている。
 亀山院は領家職を兼嗣から奪い、弘安八年一〇月一八日領家奉書の発給者である某御房に与えた。その後、領家は廊御方に交替したが、その時点で松殿兼嗣が訴訟を起こし、領家への復帰を図ったが実現しなかった。弘安一〇年ないしはその翌年に杵築社本殿の造営と遷宮が終わったこともあり、新領家廊御方のもとで出雲実政が神主に補任された。実政は松殿兼嗣への不忠により神主を一旦解任されたが、廊御方のもとで復活した。これに異論を持つ国造泰孝が訴え、幕府が正応五年七月九日に泰孝の主張を認め、六波羅探題に領家廊御方に申し入れるよう命じている。
 実政は幕府に越訴を行ったが、永仁五年二月一一日に幕府がこれを退けている。永仁三年までは廊御方が領家で、松殿兼嗣との間の裁判が幕府で継続していたことがわかる。領家をめぐる裁判の判決は残っていないが、その後領家は中納言僧都御房に交替し、そのもとで実政が預所に補任されたことが①からわかる。となると「去年御代始」とは後宇多の即位ではなく、一旦持明院統に移っていた皇位が、後宇多の子後二条天皇が即位したことで大覚寺統に戻った正安三年正月のことである。当然、①は正安四年五月二五日のものとなる。杵築大社領は大覚寺統が支配していたのである。
 これに対して②はそれ以降のものとなるが、この時点で実政は実孝と改名し、領家中納言僧都御房の祗候人となっていた。それに対して訴訟との関係で、領家に対して実政の照会がなされ、中納言僧都御房の側近である法願が回答したのが②である。その後、嘉元四年には松殿兼嗣が領家に復帰していたことが確認出来る。正和三年には三崎社検校も補任していた。その背景として兼嗣が五辻三位を通じて大覚寺統に働きかけたことがあったのだろう。五辻三位が後二条天皇の第一皇子である邦良親王を正安二年に産んだ五辻宗子の兄弟親氏であることはすでに述べた通りである。

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