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2018年3月13日 (火)

鎌倉中期以降の伯耆国司1

 『鳥取県史』のリストの基準がよくわからないが、概略を確認する。
 承久の乱後に補任された藤原尹輔については前述のように不明であるが、交替していることは、前任者が承久の乱により失脚した可能性が強いことを示している。安貞元年(1227)一二月二五日には源盛朝が伯耆守に補任されているが、系譜上の位置づけは不明である。承久三年正月五日には右兵衛府に関わる人物として源朝臣盛朝がみえ、天福元年(1233)
四月二三日には馬寮使右馬助盛朝がみえ、検非違使・北面系の人物であろう。
 寛喜三年(1231)四月一四日には藤原親泰が伯耆守に補任されている。知行国主はそれまで下総国を与えられていた九条良平にかわって子の高実である。同年一一月九日の時点の現任も確認できる。天福元年四月八日には藤原業茂が伯耆守に補任された。安貞元年一〇月二一日には中宮権少進、建長二年五月二日には木工権頭とみえ、検非違使・北面系の人物ではない。知行国主は権中納言日野家光であったが、嘉禎二年(一二三六)一二月一四日には死亡しており、これによって国守も交代したはずである。
 仁治元年(1240)一〇月二四日に伯耆守に補任されたのは吉田資経の子資通である。知行国主は兄吉田為経が寛元元年一一月一一日に現任している。宝治元年(1247)五月九日には伯耆前司資通とみえ、退任していたことがわかる。文永一一年一二月日と弘安元年(1278)八月日の安嘉門院政所下文の署判者として前伯耆守藤原朝臣がみえる。資通との注記があり、在任から三〇年以上経過しているが正しいと思われる。安嘉門院は父後高倉院と母持明院基家の間に生まれ、膨大な八条院領を相続していた。文永一一年の別当は三条公親であり、弘安二年の別当は久我通基であった。久我氏は通基の祖父が後室の一人西蓮に所領の大半を譲ったため、これ意向は別の後室安嘉門院左衛門督局が継承した平頼盛領がその中心となった。資通は弘安三年に従三位公卿に除せられた。
 宝治元年三月一六日には和泉国知行国主冷泉定頼が相博という形で伯耆に遷任された。それまでの伯耆国知行国主吉田為経は和泉国へ遷任している。一一月二八日には平光平が伯耆守に現任している。桓武平氏桓平の子で、光平の曾祖父維綱の子顕綱が三重氏の、良平が杉原氏の祖となり、両方とも六波羅探題の奉行人を出している。光平は杉原氏であるが、又従兄弟である三重政平は周防守となり、その娘は太政大臣土御門定実の室となり雅房を生んでいる。宝治元年一一月五日大宰府守護所下文写にみえる前伯耆守家朝(前年一一月日に譲状作成)が伯耆守であった時期については不明である。

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