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2018年3月10日 (土)

院政期の伯耆国守1

 このことについては『鳥取県史』資料編古代中世2古記録編に関係史料のリストが掲載され、状況の把握がしやすくなったので、それに基づき、まとめてみたい。『日本史総覧』Ⅱ中世一・古代二の一覧表ならびに、五味文彦氏『院政期社会の研究』の関係論文も参照した。
 白河院が初めて主導権を持って行った天仁元年(1108)正月の除目で分国主白河院のもとで伯耆守に補任された藤原家光についてはすでに述べたので省略するが、現任の最終史料が永久二年(1114)一二月一八日のもので、後任と思われる高階為遠の補任は同四年(1116)正月である。『総覧』では後者については誤りかとし,県史のリストではその史料は掲載せず、永久五年一一月二六日には平忠盛が現任している史料を掲載している。そして県史のリストでは元永二年(1119)六月二八日には「藤原家光」が故人となっていることを示している。伯耆守を二期八年(1108~1116)務めて退任して間もなく死亡したと思われる。
  その後任は高階為遠ではなく、永久四年正月に正盛の子忠盛が伯耆守に補任されたとおもわれるが、二二才で初の国守である。忠盛は保安元年(1120)一一月二五日に越前守に遷任したが、父正盛は同年四月頃に死亡しており、忠盛は院分国のもとで越前守であった。次いで藤原顕盛が伯耆守に補任されたが、五味氏はこれを父長実の知行国とされた。院分と長実分が相博された。顕盛の父は長実、祖父は顕季で、ともに白河院の近臣として複数の知行国を認められていた。顕季(1123没)のもとでは長実が因幡守(院分)、尾張守(顕季分)、伊予守(顕季分)、播磨守(顕季分)、伊予守(顕季分)を務め、家保は越前守(白河院分)、丹波守(顕季分)、但馬守(顕季分)、播磨守(顕季分)、伊予守(分国主無)を務めた。
  顕盛の伯耆守の終見は大治二年一一月二〇日で、遷任した尾張守の初見が大治四年二月二四日なので、大治三年(1128)に伯耆守が交替した可能性が高い。顕盛は知行国主である父長実のもとで天治元年一二月二九日には重任し二期八年務め、後任は天承元年(1131)一月一九日にみえる某長親である。長親もまた長実の子であり、知行国主は継続された。

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