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2018年3月12日 (月)

鎌倉初期の伯耆国司1

 鎌倉初期の伯耆守は知行国主中山忠親のもとでその子忠明が務めていたが、建久三年(1192)七月一二日に忠明が尾張守に遷任し、藤原家信が伯耆守に補任された。近江と相博とあり、文治元年一二月二七日の補任により知行国主である父雅長のもとで近江守であった。親子の関係は伯耆国でも同様である。七条院(後鳥羽院母)女房堀河局(美作前司家長娘)を母とするためか、正治元年一一月、建仁三年一二月、承元四年正月にはいずれも七条院御給として従五位上→正五位下→従四位上に除されている(建永元年正月の従四位下は臨時給)。建保元年には土御門天皇中宮陰明門院御給で正四位下に除せられた。雅長-家信は院近臣であり、系図には雅長女子の中で三名が七条院女房と記されている。
 建久七年(1196)一二月二五日には父である知行国主藤原親信のもとで三〇才の子仲経が伯耆守に補任されている。正治元年(1199)一月一〇日に兼内蔵頭に補せられた仲経が同年六月二三日伯耆守を止められ、これに代わって同日に補任されたのが藤原済基であった。関係史料は殆ど未確認だが、建仁二年一〇月一四日には能登守に現任していた。済基は小一条流藤原済綱の子で、若狭守藤原親能の娘が母である。親能は御子左家藤原忠家の孫(藤原俊成もその孫)である。済基の姉妹が花山院兼雅の子家経の室となっており、正治元年六月22日には参議に進む家経(1174~1216)が知行国主ではないか。
 次いで元久二年正月三日に「前伯耆守源盛忠」がみえる。①寛喜元年一〇月五日に周防守に補任されている源盛忠と同一人物ではないか。②また貞応元年三月日右大臣徳大寺公継家政所下文の署判者前長門守源朝臣とも同一人物ではないか。盛忠はやはり北面系の人物で各地の国守を歴任しているが、長門守には二度補任されていることになる。承久の乱の直後に補任されていた場合、その知行国主は承久三年一一月一六日に現任している藤原国通となる。そして源盛忠は知行国主藤原国通のもとでの伯耆守であった可能性もある。
  国通は藤原泰通の子で健保六年の参議をへて権中納言まで進んだ。平賀朝雅が殺害され、北条時政が幽閉された後に牧の方は娘とともに京都に移り、娘は国通に再稼した。嘉禄三年には時政の一三回忌が国通邸で行われている。

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