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2018年3月29日 (木)

鎌倉後期の杵築社遷宮1

 この問題については井上寛司氏作成の一覧表で弘安一〇年(一二八七)と正中二年二月一六日に遷宮が行われたと記されているが、根拠はあるのだろうか。
 前者については弘安一〇年八月三〇日に朝廷で遷宮日時が定められたとの記事があり、これに基づく。ただし、日時決定から実施までにはある程度の時間が必要である。宝治二年一〇月二七日に行われた遷宮の場合、その日時が決定されたのは一年以上前の宝治元年九月二五日である。久安元年一一月二三日の遷宮日時(実際にはトラブルにより二五日に完了)は一月強前の閏一〇月一三日に決まっているが、一年以上前の天養元年九月二五日にも日時が検討されており、当初の日程(仮決定)を変更し、正式決定後一一月に実施したことを示す事例ではないか。閏一〇月には国司が下向し、遷宮前に仮殿で神拝を行って二六日に上洛している。
 これが仮殿遷宮の場合は決定から実施までの期間は短く、康治元年一一月二一日の遷宮は一月強前の一〇月一一日に定められている。とりあえず、弘安一〇年ないしは一一年には遷宮は実施されたと思われる。当時の出雲守をみると平忠俊が弘安七年(一二八四)年七月に補任され、藤原実躬が正応二年(一二八九)以前から出雲守であったことが確認されているが、この前後の出雲守は短期間で交替することが多く、忠俊が遷宮まで出雲守であったかは不明である。
 これに対して正中二年の遷宮については、後世の国造側が作成した記録にあるが、現在残っている史料とは明らかに矛盾している。知行国主日野俊光・中御門為方・西園寺公衡(~一三〇一~一三〇五)に造営に関する命令が出されており、新たな本殿造営が開始されていたことがわかり、その一方で幕府の関与が強まり、守護佐々木貞清、在国司朝山時綱、多祢頼茂とともに国造が造営を進めることを命じた関東御教書が出されている。

 

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