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2018年3月 1日 (木)

鎌倉中期以降の隠岐国司1

  守護佐々木義清は安貞元年(一二二七)三月一一日に隠岐守に補任され、翌年五月の時点では前隠岐守となり交替していた。後任については不明である。
 仁治元年(一二四〇)正月二二日の除目で隠岐守に補任されたのは藤原業俊であった。系図上の位置づけは不明だが、寛喜三年三月二五日の除目では下野守に補任され、嘉禎元年九月日近衛家実政所下文には前下野守藤原朝臣と署判しており、この時点で下野守を退任していたこと、近衛家と関係があったことがわかる。
 寛元三年(一二四五)一二月一八日の除目で隠岐守に補任されれた中原景資は、天福元年四月には中務丞に補任され、仁治元年一二月一八日には従五位下に進んでいた。後嵯峨院の主典代であり、殿上人として後院庁別納所年預を務めているように実務に精通した役人である。但し隠岐守補任の翌寛元四年閏四月二七日には死亡している。
 康元元年(一二五六)一〇月二三日に隠岐守に補任された源親平は正元元年に侍従に補任された時点でもなお幼少であり、実権は知行国主である父資平(四〇才)が持ったと思われる。資平は村上源氏である顕氏の子で、後嵯峨天皇の即位により日の当たる立場になったとされる。
 弘長元年(一二六一)七月二一日には幕府の有力御家人二階堂行氏が隠岐守に補任されている。建保六年に隠岐守に補任された行村の孫である。行村の子孫は隠岐氏を称する。行村の子元村(基村)の娘が関東祗候公家の持明院家定との間に生んだのが基盛であることは別の場所で述べた。
 文永四年(一二六七)一一月一〇日の除目で隠岐守に補任されたのは藤原広能であった。元検非違使であり、その子広義、孫広有は隠岐氏を称し二条家の家司として活動した。広有は建武元年には怪鳥を退治して因幡国内で大規模庄園二ヶ所を与えられている。幕府御家人波多野左衛門尉広能との関係は不明である。続いて文永七年(一二七〇)一月二一日には隠岐国守護源(佐々木)時清が隠岐守に補任されているが、建治元年(一二七五)には前隠岐守となっている。
 弘安三年(一二八〇)一〇月には幕府評定衆二階堂行景が隠岐守に補任されているが、同六年七月二三日の時点で前隠岐守となっている。行景は弘安八年の霜月騒動で安達泰盛方として討たれた。そして同六年七月二〇日に隠岐守に補任されたのが三善盛時であった。正応三年(一二九〇)九月四日に内大臣洞院公守が後深草院御所に参った際に、前駆として(三善)盛時が堀川光世とともにみえている。弘安九年四月二七日に勘仲記の筆者藤原兼仲が隠岐国知行国主に補任され、国守には大夫将監時通を起用している。弘安一一年一月一三日に前隠岐守とみえる某清成は時通の後任か。 
 弘安一一年二月七日に蔵人大輔(堀川顕世)が院宣(参議奉)で隠岐国を拝領し、それを二月二七日に左衛門少尉頼□を奏者とする国宣で在庁に伝えている。隠岐守には当初源能憲が補任されたが、三月六日には従四位下小槻宿祢秀氏が兼職として補任された。能憲については他の史料がなく不明である。秀氏の隠岐守現任は『勘仲記』正応二年四月一三日、一〇月三〇日条で確認でき、一〇月三〇日には藤原兼仲を修理右宮城使左中弁に補任する伏見天皇宣旨の奏者としてみえる。正応三年一二月 日  関白前右大臣〈近衛家基〉政所下の署判者として別当中宮亮平(仲兼、石見国知行国主にも)、造興福寺長官右大弁兼春宮亮藤原朝臣(兼仲)、修理東大寺大仏長官左大史兼隠岐守小槻宿祢(秀氏)がみえる。

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