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2018年3月15日 (木)

徳大寺氏領長海新庄1

 

大阪府河内長野市三日市町に毛利時親と楠木正成の像が完成し3月10日、現地で除幕式が行われた、との記事をみた。
 島根郡長海庄は承久三年頃の宣陽門院領目録に新御領の一つとして出雲国長海庄としてみえている。宣陽門院は後白河院第六皇女である。長海庄は文永八年段階では本庄と新庄に分かれていたが、それは目録作成以降のことになる。目録の庁分とは父後白河院が建立した持仏堂長講堂に集められた庄園である。これに対して後白河院の母待賢門院から姉上西門院を経由して後白河院分となったのが新御領三三ヶ所である。実際には庁分三四ヶ所より早く成立した所領が多いと思われる。この二つが宣陽門院領の中心となるが、それ以外に庄号はあっても年貢が納められていない庄園が四ヶ所、女房別当三位家領が五ヶ所、祈願所竹林寺と真如院に寄進された庄園が一二ヶ所あり、所領以外に後白河院第一皇女殷富門院御祈祷所が六ヶ所、その他の宗教施設が二ヶ所記されている。女房別当三位家とは藤原邦綱の娘綱子であり、摂関家家司から出発し、平家、後白河院とネットワークを広げた邦綱の活動を裏付けるものである。
 正和元年七月七日六波羅下知状案によると、文永八年杵築社三月会頭役結番注文には、島根郡長海新庄と大原郡福田(加茂)庄以外には地頭名が記されているが、この二ヶ所は本所一円地で地頭が補任されていないため、地頭の欄は空白となっている。ただし、頭役負担の対象として注文には入れられた。その後、一回目の福田庄が当番の際に賀茂神社が抵抗して頭役負担をしなかったため、二〇番体制から一九番体制に変更されたことについてはすでに述べた通りである。
 これに対して徳大寺氏領長海新庄は頭役負担を行っている。正確に言えば、本家宣陽門院、領家(本所)徳大寺家という本所一円地であった。本家宣陽門院は建長四年に死亡した。宣陽門院は養女で後堀河院の中宮であった近衛長子(鷹司院)に全所領を譲ろうとしたが、後嵯峨院の反対により、上西門院領のみ長子に譲り、残りは後深草院に譲られた(すべて長子とするものもある)。その後、紆余曲折はあるが、上西門院分は持明院統、残りは持明院統と大覚寺統で折半されたようである。自分で確認していないことと、論旨に関係ないので、本家の継承経過については今後の課題とする。

 

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