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2018年3月14日 (水)

鎌倉中期以降の因幡国司1

 承久の乱の前後を通じて因幡国では中院通光が知行国主であった。それが嘉禄二年(1226)八月二九日に因幡国は中宮分国となり、二条定季の子盛季が因幡守に補任された。盛季は宝治元年には従三位に進んでいる。寛喜二年六月二五日には堀川具実が知行国主を辞退しているが、その背景は不明である。因幡守に補任されたのは藤原輔平の子教信で、安貞元年正月七日には従五位下に除せられ、四月二〇日には右近衛権少将に補任されているが、天福元年(1233)には高野山で出家している。源大納言(源定通ヵ)の婿に吹挙されながら実現しなかったことが原因とされる。
 寛喜三年四月一四日に因幡守に補任されたのは藤原親実の子親氏で、兄成実が大宰大弐を辞して自らが因幡国知行国主となり弟右少将親氏を因幡守にした。親氏は嘉禄二年四月一九日に正五位下に除せられ、寛喜二年閏正月四日には讃岐守に補任され、翌年に因幡守に遷任した。寛喜二年二月二七日には関白九条道家の家司としてみえる。貞永元年三月二五日の石清水若宮歌合の参加者として従四位下行右近衛権少将顕因幡守藤原朝臣親氏とみえている。『民経記』寛喜三年七月二五日条によると因幡国は近年八幡造営を理由に北野祭の負担を進済していないという。八幡宮造営料所に宛てられていたのだろう。文暦元年正月の時点でも知行国主は成実であったが、翌二年七月六日には九条道家御教書により因幡国務が石清水八幡宮別当法印御房宗清に寄附されている。道家の知行国を寄附したのであろう。
 嘉禎元年正月二三日には平時兼の子範綱が因幡守に補任されたが、因幡国は石清水八幡宮が知行国であった。嘉禎三年三月一〇日には摂政が九条道家から近衛兼経に交替しているが、範綱は家司職五名の中で職事に補任されている。そこでは従五位上守刑部権大輔平朝臣範綱と記されており、因幡守は退任していた。
 仁治元年閏一〇月二八日には橘業朝が因幡守に補任された。同二年正月八日に知行国主としてみえる堀川具実のもとでの国守であろう。業朝は貞永元年閏九月に二二社奉幣使が派遣された際には日吉社に派遣されている。仁治三年四月二四日に後嵯峨天皇即位に際して山陵使が派遣されているが、その中に後田邑に派遣された因幡守橘朝臣業清がみえるが、同族であろう。

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