koewokiku(HPへ)

« 暴走列島2 | トップページ | 知行国主の有無2 »

2018年3月 6日 (火)

知行国主の有無1

 院分国との違いを含めて知行国には不明な点が多い。院分国も治天の君の場合とその他の院(女院)とでは異なり、後者は知行国と同じではないか。治天の君の分国の場合は税を含めて収入となるが、それ以外は税は政府に納めた上で収入を得たのであろう。それでもすべてが知行国となっては国司の人事を含めて困難となるので、『中右記』大治四年(一一二九)年七月一八日条にみえるように、白河院のもとでは三〇余国が、近臣や女院に配分した知行国の数であろう。白河は七月七日に死亡しておりその最末期の状況であろう。後に平家がクーデターにより知行国を独占した際も六〇余ヶ国の半分に越えたりとあったように、半分強が知行国とする数の限度ではなかったか(両統分立までは)。
 天仁元年(一一〇八)正月、白河院が政治の実権を掌握して初めての除目が行われ、一四ヶ国の国司が補任されている。この中で伯耆国のみは白河院分国であったことが記されているが、他の一三ヶ国の中で知行国がどの程度あったであろうか。
 摂津守に補任された源広綱については、藤原宗忠が「式部・従四位上君(公)達で最下国に成り尤も不便」とコメントしている。同年一一月二八日に六一才で死亡しており、知行国主はいなかったと思われる。駿河守に補任された平為俊は検非違使で院に祗候していたため「宜き国に成り不穏便」と宗忠がコメントしている。翌年一〇月五日に為俊が白河院に馬一〇疋と牛一〇頭を献上しているのも院との密接な関係を示していよう。年齢は不詳だが院の北面から国守になった人々は自ら国務をとることが多かったと五味文彦氏が述べているように、知行国主はいなかったであろう。甲斐守に補任された藤原師季は五〇才で院の祗候人(北面)であった。七年間に亘って甲斐守であったが、天永二年一〇月五日には白河院に馬一〇余疋を献上している。これも知行国主はいなかったであろう。
 伯耆守橘家光については唯一の白河院分国下での国守であった。永長元年(一〇九六)には淡路守であったが、この時点の淡路国も院分国であった可能性が大きい。永久五年(一一一七)には平正盛の子忠盛が現任しているが、この年には二二才で初の国守であり、父正盛が知行国主であった可能性がある。
 堀河院分である信濃守には白河院蔵人一臈大江広房が補任されたが、宗忠は「広房の前任の頭である道明朝臣が受領を希望したのに、現在の蔵人である広房を起用したのは会釈無き事か」と批判的にコメントしている。広房は学問の家に生まれ大江匡房の養子となり大江姓を使用していたが、後に本来の橘姓に戻している。康和五年(一一〇三)に蔵人に補任されている。天永二年に美濃国に向かう途中の下野守源明国と私闘となり殺害されたが、年齢は不詳である。
付記:信濃守大江広房に関する記述を修正した。

« 暴走列島2 | トップページ | 知行国主の有無2 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 知行国主の有無1:

« 暴走列島2 | トップページ | 知行国主の有無2 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ