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2018年2月22日 (木)

近衛中将藤原実春について

 調べている最中に脱線することも多いが、この人物について気になったので、調査結果を記しておきたい。きっかけは杵築大社庄園領主松殿兼嗣の嫡子通嗣(後に通輔)の母が閑院流の藤原実春の娘であったことである。ネットで検索すると北条泰時の娘の中にも三木中将実春の室となった女性がいたことがわかった。『吾妻鏡』によると閑院内裏が完成し還幸が行われたことの賞として実春は左近衛中将に進んでいる。そして、弘安六年七月三日関東下知状(鎌一四八九八)によると、肥後国御家人平河氏が肥後国球磨郡永吉地頭并名主職について越訴し、訴えを認められているが、その中に建長三年に実春朝臣が地頭職を、文永二年には名主職も押領したことが記されている。
 大江広元が関東御領である球磨御領五〇〇町の預所であり、平河氏はそのもとで三五〇町を占める永吉地頭としての権利を認められていたが、預所を譲られた実春が地頭についても自らのものだと主張したのである。実春が根拠としたのは嘉禄元年一一月御下文で、そこには永吉西村地頭職について外祖父沙弥覚阿譲状に任せて近衛侍従の御沙汰が認められている。
 この覚阿については平河氏について意見交換するネット上の場では本文中の広元とは別人ではないかとの意見が出されていたが、実春の母方の祖父が広元であり問題はない。その場でも実春の出自に関する情報が無いことが歎かれていたが、閑院流の徳大寺公能の子実家の孫実春である。その兄弟には報恩院僧正で蓮蔵院も支配した広元の孫実深がおり、嫡子と思われる実光についても母は大江広元の娘だと記されている。実深の拠点とした蓮蔵院には広元領が寄進されたが、同じ孫である実春は永吉の預所と地頭を譲られていた。大江広元の娘を室としたのは実家の嫡子公国であり、閑院流の西園寺公経の姉妹にも公国の室となった女性がみられる。実春については系図では名前と子として公春、孫として実員がいたことしか書かれていないので、光春の母と松殿兼嗣の室となった女性が泰時の娘であったかはどうかの確認はできない。
 実家の兄徳大寺実定が建久二年に死亡した際には頼朝が深いため息をついて残念がったことが『吾妻鏡』に記されており、知行国主実定のもとで、頼朝の側近梶原景時が美作国目代を務めていた。文治元年一二月に実定の後任の知行国主となったのは弟実家で、国守には実家の子公明が補任されていた。大江広元は嘉禄元年(一二二五)六月一〇日に死亡しており、それに伴い孫の実春への譲与が幕府によって安堵されたのが一一月の下文であった。兄弟である実光は建仁二年(一二〇二)、実深は建永元年(一二〇六)の生まれである。実春に関する情報がネット上で検索しても得られず困っていたが、なんとか閑院流だということで当たりをつけて系図集を見たところ確認できたので、まとめてみた。

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