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2018年2月13日 (火)

将軍頼嗣の母

 鎌倉幕府第五代将軍頼嗣は四代将軍九条頼経と藤原親能の娘との間に生まれたとされるが、頼経が建保六年(一二一八)の生まれであるのに対して、妻の父とされる親能は承元元年(一二〇七)一一月二二日に三九才で死亡している。その娘なら遅くとも承元二年までには生まれていたこととなり、頼経との間には一〇才以上の年齢差がある。頼嗣が生まれたのは延応元年(一二三九)一一月二一日であり、父頼経が二二才で母親能女子は三二歳以上となる。頼経の正室であった竹御所は一六才年長であったが、これは彼女が二代将軍頼家の娘であり、源氏の血を引く人であったためである。親能女子は不可能ではないが、疑問があることのみ述べておく。
 というのは頼経室としては承久の乱後の承久3年(一二二一)に出雲国知行国主となった持明院家行の孫娘も頼経の室となり、頼嗣の弟となる男子を産んでいる。また家行の孫基盛は文応二年には将軍宗尊親王の近習であることが確認できる。家行は安元元年(一一七五)の生まれで、嘉禄二年(一二二六)に五二才で死亡している。頼経室が頼経と同年齢とすると四四才の時の子となり、こちらは問題ない。
 親能は権中納言にまで進んだが、父定能(極官は権大納言)に先だって死亡した。このためか、少なくとも三人の男子がいたことが知られるが、公卿に進んだものはいない。これに対して、家行の子にも公卿に進んだものはいないが、孫基盛が幕府に仕え、関東御領出雲国長海本庄の地頭となっている。家行娘の母については不明だが、藤原定能女=親能の妹である。とりあえず、竹御前以外の頼経の室二人は従姉妹ということになる親能の娘は。『吾妻鏡』では「二棟御方」(将軍家御寵、大宮殿)とあり、家行の娘は『北条九代記』では「御台所」と呼ばれている。頼嗣は父頼経の引退後、寛元二年(一二四四)に六才で将軍となり、同三年には北条経時の妹檜皮姫を正室としたが、同四年には宮騒動により父頼経は京都へ強制送還された。自らも建長四年(一二五二)に一四才で将軍を解任され、京都へ追放された。また父頼経が三九才で死亡した翌月である康元元年九月に一八才で死亡した。

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