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2018年2月12日 (月)

備中国をめぐる争奪戦

 承久の乱後、備前国とともに鎌倉幕府の兵粮料所とされた備中国は、寛喜三年(一二三一)八月二十三日に陸奥国と交換する形で(後堀河天皇)中宮=九条道家娘(母は西園寺公経娘、二条良実、将軍頼経は兄弟)の分国となった。一方、陸奥国は将軍頼経の知行国=関東御分国となり、以後、北条氏一門が国守を独占した。唯一の例外は弘安五年(一二八二)七月十四日に陸奥守となった安達泰盛であった。
 備中国は天福元年(一二三一)には近衛兼経の知行国主現任が確認できる。寛元二年(一二四四)四月五日以前は式乾門院(後高倉院娘、後堀河子四条の准母)分国で西園寺公経が「国務」であった。公経が国守というのはありえず、院分国下の知行国主であろう。国守は不明である。その任期が終了したので備中国の争奪戦が始まったのだろう。『平戸記』寛元二年四月五日条によると、備中(元式乾門院御分、入道相国=西園寺公経国務)は殿下(二条良実)が賜った(国守藤原能行は関係史料が少なくどのような人物かは不明。日本史総覧で国守を行実とするのは?)とある。ただし、久我前宰相源通光が希望していたようで、兄弟の定通を通じて後嵯峨院へ働きかけたが、実現せず、法性寺入道九条道家の知行国であった丹波国を通光(国守は子の通持)に与えて宥めようとしたが、通光は納得せず、四月五日の補任から三ヶ月余りで辞退し、平親継が丹波守に補任されている(知行国主は不明)。
 備中国を希望していた人は他にもおり、西園寺公経・実氏父子は後嵯峨天皇の中宮(実氏娘姞子)の分国とすることを望んだとする。この場合も院分国のもとで西園寺氏が知行国主となり、国守を補任する形であったのだろう。一人の知行国主が長期間に亘って続いている場合は、一宮造営などが継続していたり、治天の君(この時点では後嵯峨天皇)が分国主であった場合であろうが、これは例外的なものである。

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