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2018年2月15日 (木)

侍従三位=家時?

 漆治郷についてで述べたこの人物について検討する。デジタル版 日本人名大辞典+Plusには以下のように記されている。その情報は公卿補任(嘉禎元年外)に基づくものである。
1194-1282 鎌倉時代の公卿(くぎょう)。
建久5年生まれ。藤原保家(やすいえ)の次男。若狭守(わかさのかみ),右馬頭(うまのかみ)などをへて,嘉禎(かてい)元年従三位となり,侍従,備中権(びっちゅうのごんの)守などをつとめ,正元(しょうげん)元年従二位。弘安(こうあん)5年7月20日死去。89歳。
 父は持明院保家、母は高階経仲の娘である。承久の乱後の出雲国知行国主持明院家行の従兄弟になる。正元二年に正三位から従二位に進んだとの記載があるにもかかわらず、翌年以降も非参議「正三位」(散位)の場所に記されている。嘉禎三年一〇月二七日に侍従に補任され、暦仁元年には正三位に進んだと記してある。それ以降はひたすら「家時 侍従」と記される。仁治二年二月一日には備中権守に補任されるが、翌三年一一月四日に止められている。ところが翌四年にも同様の記載があり、公卿補任の編者もその点を指摘している。翌年からは再び「侍従」のみ。年齢も記されていない。宝治元年に初めて「五十二」と年齢を記し、一歳ずつ増えていく。さらに問題の正元元年には閏一〇月一三日に従二位に除せられたと記されており、公卿補任の編者も翌年から死亡する弘安五年まで「正三位」とあるのは疑うべきと記す。建治三年には「侍従」が欠落しているが、翌年は復活。そして弘安五年に七月二〇日に「侍従」のまま八九才で死亡したと記される。
 弘安四年七月一三日の時点で「侍従 三位」であるのは家時以外に藤原能清がいる。能清は建治三年九月一三日に五二才で侍従に補任され、弘安八年に従二位に、正応四年には正二位に進んでいる。そして永仁元年一二月一三日にはようやくというべきか「参議」に補任されているが、翌二年三月二七日に辞退し、「前参議」となったところで同三年九月一日に七〇才で死亡している。
 弘安四年の「侍従三位」を持明院家時とする説はかなり怪しいことが確認できた。八八才で翌年に死亡する人物が出雲国知行国主(これは松江市史での西田氏の解釈)や漆治郷領家(これはブロクの説)たりうるであろうか。根拠のある藤原能清にすべきである。また、三位という地位から出雲守ではありえない。知行国主なら可能だが、能清が出雲国以外の国守・知行国主となった史料はない。

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