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2018年2月 1日 (木)

長寿寺について2

 三重県史に建武三年一二月 日長寿寺雑掌元通申状が残されており、寺領阿野庄金沢村等の安堵を求めていることは「1」に追記して補充したが、その他の関連史料を確認したので以下に述べる。
 伊勢神宮の図書館とでもいうべき神宮文庫所蔵の『輯古帖』には建武四年二月十三日光厳上皇院宣が残されており、寂淳禅師に対して「長寿寺領所々知行」を安堵し、所務を全うするよう命じている。申状の要求は認められた。次いで応永二〇年に建仁寺永源庵領が安堵された際に、末寺長寿寺とその所領も安堵されたことは「1」で述べた。
 次いで『蔭凉軒日録』長禄三年(一四五九)一〇月一七日条には「綱持」の事で近江国迩保庄(賀茂社領、地頭曽我氏)寺庵、臨済宗南禅寺慈聖院末寺駿河国長寿寺、浄土宗勝定院末寺(伊勢国ヵ)長光寺、臨済宗西芳寺末寺寺香林庵、浄土宗安禅寺末寺(近江国ヵ)永福寺を闕所とするとの幕府の方針に対して、撤回を求めている。『史料総覧』の綱文では闕所=廃寺と解釈している。この時点での長寿寺は建仁寺永源庵の末寺から南禅寺慈聖院の末寺の扱いに変更されていた。既に述べたように長寿寺と阿野庄はそれぞれ独立した扱いで、長享二年(一四八八)には阿野庄内東原村は、前述の史料にみえる西芳寺領であった。
 その後の状況は史料を欠いているが、長寿寺の置かれた状況は保護する力が小さくなる中で廃絶し、文書は三重県内に二点確認できるように、それを所持する関係者が伊勢国に移動していた可能性が大きいが、そこからさらに流出したのものが、出雲国の安国寺に持ち込まれたのであろう。伊勢国に移動した背景としては上記の浄土宗勝定寺末寺長光寺が伊勢国に存在したことであろうか。出雲国迎接寺文書には宝光寺文書も含まれているが、ともに真言宗寺院と思われる。

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