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2018年2月 4日 (日)

12世紀後半以降の石見国司2

 後白河が院近臣中の近臣藤原能盛を出雲守に起用するため、押し出される形で朝方・朝定父子が石見国知行国主・国守に転じた。その後両者は出雲国に復帰し、朝定は養和元年(一一八一)三月六日に出雲守に重任している。一方、後任の石見守としては治承二年(一一七八)八月二四日に「藤原致頼」がみえるが、「能頼」の誤りで、知行国主父光雅(宗頼の実兄)のもとで一族(光頼の従兄弟重方の子)の能頼が起用されたものであろう。約三年経った治承元年初めに朝定から能頼に交代したと思われる。
 富永氏は養和元年(一一八一)八月から一二月にかけて、石見国が皇嘉門院の分国となり、源季広が国守であると述べられた。その根拠として八月一日に石見国所課が持参されたと院の家司吉田経房がその日記『吉紀』に記している点と、一一月二日に皇嘉門院新造御所について「作事石見大進季広奉行之」とある点(『同』)をあげられたが、それ以外の解釈が可能である。益田庄と大家庄という石見国の大荘園が皇嘉門院領であり、そのためであろう。「石見大進」との官職もないので、作事を石見国の庄園が負担し、担当したのが「大進」である源季広であった。季広も源季兼の子だが、国守として確認できるのは下野守のみである。「大進」は皇嘉門院に関わるポストであろう。井上寛司氏作成の「中世石見国関係史料編年目録」によると、吉記の養和元年(一一八一)一一月一五日条に「石見守能頼、三位殿(九条兼実弟兼房ヵ)家司」とあるようであり、皇嘉門院と源季広が石見国を支配したとの説は成り立たない。
 寿永元年(一一八二)八月一日には「石見守能頼」がみえ、能頼は石見守を重任していたと考えられる。富永氏は前年一二月に皇嘉門院が死亡したために復帰したと解釈されたが、院近臣が知行国主・国守となる状況にそぐわないものである。

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