koewokiku(HPへ)

« 鎌倉初期の隠岐国司5 | トップページ | 鎌倉初期の隠岐国司6 »

2018年2月25日 (日)

佐々木義清と淡輪庄

   安貞2年(1228)5月日の近衛家実政所下文では、摂関家領和泉国淡輪庄下司左衛門尉兼重の非法停止が命じられている。この政所下文の別当として署判を加えている前隠岐守源朝臣を隠岐国守護佐々木義清に比定した理由を述べる。
 近衛家実は承久三年(一二二一)以来摂関家氏長者であったが、安貞二年一二月二四日に西園寺公経と九条道家の工作により准摂政兼関白を辞任に追い込まれ、関白と氏長者は道家に交替した。次いで道家の子教実が関白・氏長者となった。天福二年(一二三四)五月二〇日前左大臣九条良平政所下文では、武家(幕府)下知状に任せて左衛門兼重自由沙汰を停止し、地頭職を改めて元の下司職に戻すことが命ぜられている。教実はこの前年の天福元年に後堀河天皇中宮(九条道家娘)と後堀河院が相次いで死亡したことに衝撃を受け、後鳥羽院の怨念をなぐさめるためその帰京を幕府に働きかけたが失敗し、失意のもとに文暦二年三月二八日に死亡している。こうした状況下、道家の叔父である良平が淡輪庄の問題で政所下文を出したのであろうか。この可能性は低く、この後淡輪庄は良平が九条家の祈願寺として建立した成恩院領となっており、摂籙渡庄から九条家領となり、良平がこれを得たとすべきであろう。
 佐々木義清は和泉国淡輪庄に直接関係してはいないが、これ以降没落した下司兼重に替わって公文として庄内を支配していく同族の橘刑部丞重基は、新恩地頭として得た隠岐国那具村から淡輪庄に復帰した人物であった。当然、佐々木義清の当時の活動の中心は京都であった。それはすでに述べたように、隠岐国の後鳥羽院、但馬国の雅成親王、備前国の頼仁親王という三人の配流された人々を監視するためであった。そして義清は嫡子で出雲国守護を譲った政義を鎌倉で活動させ、弟で隠岐国守護を譲った泰清を六波羅探題のある京都周辺で活動する在京人とした。近衛家は義清の重基への影響力を背景に、今回の下文については政所別当としたのであろう。義清の花押は外に残っておらず、貴重なものである。なお近衛家は長井氏一族でやはり在京人として活動する泰重-頼重-貞重を摂津国垂水東牧中条の年預に起用していた。

« 鎌倉初期の隠岐国司5 | トップページ | 鎌倉初期の隠岐国司6 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 佐々木義清と淡輪庄:

« 鎌倉初期の隠岐国司5 | トップページ | 鎌倉初期の隠岐国司6 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ