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2018年2月18日 (日)

出雲・石見国知行国主の補足4

 話を戻すと、久永庄と出羽郷の堺相論に関する②の奏者前伯耆守光経は石見守でも石見国目代でもなく、三条実重の側近であり、文書名は御教書が正しい(関係ブログも修正)。これに対して、嘉元元年八月二八日前石見守奉某御教書は出雲国知行国主の袖判を持つ目代宛の出雲国宣を院宣とともに示して沙汰の実行を国造に命じている。石見国の②と同様の文書である。石見国では国宣せはなく国司庁宣が出されたがその文書は残っていない。「前石見守」は出雲守でないのは当然として、目代でもなく、これも公卿某の側近である。
 再び石見国に話を戻すと、文永一〇年三月に「前石見守平」は文永四年一〇月二三日の小除目にみえる「石見守平信名」であろう。その後に弘安二年(一二七九)年五月一日に「前石見守」とみえる仲親を挟んで源師重が文永一一年(一二七四)七月二〇日から建治三年(一二七七)一〇月二三日まで石見守であった。次いで某を一人挟んで弘安二年(一二七九)から弘安六年(一二八三)まで知行国主兼仲のもとで定成が石見守であった。以上をまとめると以下のようになる。
文永四年(一二六七)~ 平信名
?    平仲親(知行国主は鷹司兼平か基忠、仲親は建治二年九月には新陽明門院のも 
     とで下総守)
文永一一年(一二七四)~源師重(知行国主は父北畠師親ヵ)
建治三年(一二七七)一〇月頃~源(藤原ヵ)仲秀(弘安一〇年九月二一日に前石見守仲秀)
?~          藤原定成(知行国主平仲兼は文永一一年には甲斐守、弘安六年 
            には甲斐国知行国主、正応元年には備後国知行国主) 
弘安六年(一二八三)~ 藤原重氏(弘安八年に「石見前司重氏」)
弘安七年(一二八四)~ 藤原(園)基重(知行国主父基顕ヵ)
弘安一〇年(一二八七)~安倍某(知行国主三条実重)
正応四年(一二九一)~ 某(知行国主二条兼基)
永仁三(一二九五)頃~ 堀川光世ヵ(正安三年=一三〇一に石見前司)

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