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2018年2月27日 (火)

北条時輔の外祖父の補足

 北条時輔の外祖父(母将軍家讃岐の父)については、前に佐原次郎盛連(遠江守)であろうとの説を提示したが、『吾妻鏡』にあるように外祖父は文応元年(一二六〇)に死亡しているので、天福元年(一二三三)死亡の盛連ではない。盛連の兄弟には紀州国守護となった三郎家連(左衛門尉、肥前守)と太郎左衞門尉景連等がいるが、盛連の子は父の後室矢部尼(北条泰時前室)の意見に従い、時頼方となった。
 前者については『吾妻鏡』仁治四年七月一七日条の「御共結番之事」が終見史料で、その子たちは、宝治合戦で討たれている。大友頼泰の母も家連の娘であり、家連自身は文応元年まで生きていた可能性がある。
 後者については系図ではその子として蛭河又太郎景連が記されているのみであるが、嘉暦元年七月二四日に所領の安堵を求めている真野左衛門六郎宗明もその子孫である(鎌倉遺文二九五三六)。そこに記された系図によると、景連の子には真野五郎左衛門尉胤連がおり、宗明はその一族と思われる。
 真野左衛門尉宗連と結婚し、その後公家と思われる一条左衛門督実遠と再婚してその後室となっていた女性が、宗連女子阿弥〻に丹後国大内郷内末吉・菊貞両名を譲り、元応元年五月一二日に安堵を受けた。宗連女子には子がなかったため両名を元応二年二月一三日に舎弟である真明に譲った。その姉阿弥〻が死亡したので、公明が嘉暦元年に幕府に外題安堵を求めたものである。
 これにより宝治合戦後に三浦氏惣領となった盛連(その後室は三浦義村の娘)系以外に、景連系で生き残っていた人々がいたことがわかる。時輔の母である将軍家女房讃岐(尼妙音)の父の候補として、家連並びに景連兄弟を考えることができる。

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