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2018年2月 4日 (日)

12世紀後半以降の石見国司3

肝心な点(石見守藤原信盛)を失念していたので、これを「3」とし、従来の「3」の大部分は「4」に移し、なおかつ大幅に加筆・修正した。
 文治元年(一一八五)一二月の除目で、義経とのかかわりがあった院近臣が解任された。その中に蔵人頭光雅も入っており、石見国知行国主は権大納言藤原宗家、国守は藤原業盛に交代した。義経との関係があまりなかったのであろう。宗家は藤原宗能の子で、その室は光雅の姉妹であった。国守業盛については史料を欠くが「後白川院北面歴名」に前「石見守」藤原業盛とみえる。他の国守補任は確認できないが歌人として知られた藤原為忠-為業(寂念)を祖父と父とした人物であった。
 同史料には「石見守」藤原信盛がみえており、業盛の後任の石見守として藤原信盛が補任された可能性が大きい。永久元年(一一一三)一〇月に謀反を鎮圧した功により検非違使藤原盛重が石見守に補任されている。その兄弟定仲もまた天仁二年(一一〇九)八月二四日に「石見前司定仲」とみえる。定仲は藤原忠実の家司であり、摂関家との関係で石見守となった。ところが次の天仁元年正月の除目は子堀河天皇の死と孫鳥羽天皇の即位により初めて白河院の主導のもと行われた人事であった。盛重は定仲とは異なり白河院との関係で石見守に補任された。永久四年には東大寺大仏殿四面廻廊の修理を行うことで重任し、保安元年(1120)十二月二十四日に相模守に遷任するまで七年間務めた。元永二年(1119)九月二十七日の鳥羽法皇の熊野御幸では、つき従う北面下臈として「備中守平正盛」とともに「石見守盛重」がみえている。まさに盛重は平正盛の後を追う人物で、これを契機にその子孫も院北面とともに西国国司を務めていくことになる。
 盛重の孫能盛と兼盛は後白河院との関係から平氏のクーデターでは弾圧を受けているが、平氏の滅亡により復活し、両者の従兄弟になる信盛が後白河院との関係で石見守に起用された。文治五年(一一八九)閏四月二二日に知行国主宗家が死亡しており、石見守も交代し、信盛が補任されたと思われる。後白河院が分国主であろうか。建久三年(一一九二)三月日後白河院庁下文(大徳寺文書、鎌倉遺文五八四)に「前石見守藤原朝臣」とみえるのは信盛であろう。
  次いで石見守関係記事としてみえるのは、建久二年(一一九一)六月四日の「仲遠給石州」(玉葉)である。卜部仲遠は仁安二年(一一六七)一二月三〇日に下野守に補任され、承安元年(一一七一)一二月二九日に重任している。仲遠は橘氏の氏神梅宮社(山城国、摂関家氏長者が支配)の社務として八条院領和泉国宇多庄の支配に当たっていたが、その一方では「後白川院北面歴名」に「前下野守」としてみえている。石州を与えられたとは知行国主のことであり、仲遠が後白河院から優遇されていたことがわかる(龍野加世子「八条院領の伝領過程をめぐって、「法政史学」四九)。[4に続く]

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