koewokiku(HPへ)

« 北条時輔の外祖父の補足 | トップページ | 鎌倉末期の出雲国司1 »

2018年2月28日 (水)

石見守安倍朝臣

 正応元年二月以前から四年七月以前にかけて知行国主三条実重のもとで石見守であった安倍朝臣某については、以下のような関連史料が確認できる。
 ①石見守退任後の正応四年七月と九月には関白左大臣家九条忠教政所下文の署判者として「大従前石見守安倍朝臣」がみえる。政所の実務職員(大従)であった。九条忠教の母は三条公房の娘であり、忠教と実重の父公親は従兄弟であった。安倍某と忠教の関係は必ずしも固定的ではなく、正応五年一二月の忠教政所下文の大従は同族と思われる前能登守安倍朝臣であった。ところが正応六年二月に忠教が関白を退任した後の六月の忠教政所下文では再び大従として前石見守安倍朝臣がみえる。
 ②嘉元元年八月二八日に出雲国知行国主某が杵築社仮殿造営に関する院宣を目代に伝える国宣を出している。その奏者は左衛門尉某であるが、それと同日に国宣と院宣を出雲国造に示して沙汰をするように命じた御教書が出されている。その奏者は前石見守であるが、その花押は正応年間の石見守安倍朝臣の花押と一致している。
 ③徳治二年七月一二日には後宇多上皇院宣が出され、大和国山口庄の相伝を安堵したことを摂関家氏長者の側近石見前司に伝えている。この石見前司も安倍朝臣と同一人物であろうが、この時点の氏長者は二条兼基であった。二条兼基は正応四年には三条実重の後任の石見国知行国主となっていた。
 問題は②の出雲国知行国主が誰かであるが、様々検討した結果、一五年前の論文で示した西園寺公衡で間違いないことを確認した。西田氏が候補とされた吉田(中御門)経継よりは花押の類似性で勝るのみならず、当時の出雲国知行国主を持明院統系の公卿が務めていることとも合致している。経継は大覚寺統系の公卿で、且つ前年の乾元元年に四六才で参議に抜擢されたばかりであった。嘉元三年には権中納言に進み評定衆となったが、延慶元年の持明院統の伏見院政の開始から大覚寺統の後宇多院政の再開まで昇進はストップしている。まさに大覚寺統系の人であった。父吉田経俊の時点では~系といった区別はなかったが、経俊は後嵯峨・亀山上皇の院宣の奏者としてはみえても、後深草上皇の院宣の奏者としてはみえない。すでに述べたが、中納言に加えて治部卿を兼務してからも、文書に記した肩書きでは治部卿だけでなく中納言も使っている。
 話をもとに戻すと、経継と安倍朝臣との間には接点はないが、西園寺公衡はあるのである。公衡の父実兼の姉妹が九条忠教の室となっている。そして忠教の娘が兼基の室となり、兼基の姉妹が忠教の室の一人としてみえている。安倍朝臣が仕えた三条実重、九条忠教、西園寺公衡、そして二条兼基の間には婚姻を通じた関係がみられるのである。安倍朝臣はその実務能力を買われ、様々な家の管理にあたっていた。逆に言えば、摂関家ですら自前のメンバーで政所を運営することは不可能となっていた。
 西園寺公衡の知行国として著名なのは伊予国であり、西園寺家の当主が一時期を除けば知行国主を独占している。それが嘉元三年閏一二月二二日に伊豆国とともに知行国を剥奪され、伊予は九条忠教の子師教、伊豆国は花山院師信に与えられている。何が原因だったのか未確認だが、一時的な失脚と考えられる。これに対して出雲国の場合は失脚前の嘉元三年一二月三〇日には国守が藤原致連に交替している。こちらは通常の交替であり、伊予・伊豆両国が間もなく西園寺に返されたのとは違っている。
付記:なぜか西園寺公衡が石見国知行国主となっていたが、出雲国に訂正した。出雲国知行国主は嘉元元年一一月一日に二条道平に交替していた。

« 北条時輔の外祖父の補足 | トップページ | 鎌倉末期の出雲国司1 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 石見守安倍朝臣:

« 北条時輔の外祖父の補足 | トップページ | 鎌倉末期の出雲国司1 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ