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2018年2月 5日 (月)

12世紀後半以降の石見国司4

 建久三年七月一二日には藤原経成に交代している。経成は藤原成定の子で嘉禄二年正月二八日に土佐守に補任されているが、知行国主は九条教実であった。石見守の際の知行国主は教実の祖父九条良経であろう。経成は寛喜三年三月二五日には侍従に補任されている。祖父成定は西園寺通季の娘を母とし、九条兼実の娘任子(宜秋門院)に仕えその別当となった。文治三年正月三日に摂政兼実が臨時客の儀を行った際に「右少将成定」がみえる。
 正治元年(一一九九)七月一三日には藤原宣房が石見守から和泉守に遷任し、藤原雅家が石見守に補任されている。知行国主は藤原兼房であったことが確認できる。和泉国知行国主は宣房の兄長房で、長房は文治元年一二月には父光長が知行国主である和泉守に補任されている。やはり宣房の兄長房が宣房時代の知行国主であったと思われる。父光長(建久六年没)は摂関家家司であり、文治元年一二月二九日には九条兼実が知行国主であった和泉守に補任された。藤原雅家については富永氏の論文で、藤原定家の同母兄成家の子であることが明らかにされている。成家は国守は経験せずに建仁三年一〇月二四日に従三位に進んでいる。前に登場した藤原業盛についても、定家の母美福門院加賀の前夫為経の兄弟為業の子であることが富永氏により明らかにされている。為業は文治五年五月二八日に伊賀守に補任されている。為業の子範玄は建久六年一二月二八日には興福寺別当に補任されている。
 建仁三年(一二〇三)正月一二日には藤原長正が石見守に補任されている。正治二年正月五日には「労」により従四位下に進んでいる。同年二月一九日には九条良通の嵯峨堂供養が行われているが、布施を寄せた中に長正がみえる。元久二年(一二〇五)四月一〇日の除目で源頼兼が知行国主源定通のもとで石見守に補任され、長正は知行国主九条兼良のもとで筑前守に補任されている。長正が石見守であった際の知行国主も兼房の子である兼良であろう。
 承元三年(一二〇九)八月三日に石見守に現任が確認できる「邦輔」は藤原邦輔で、正治元年三月二三日の除目で検非違使に補任されている。文治二年三月一六日には摂政となった兼実の拝賀が行われ、従った公卿右大将良通の前駆四人の中に「邦輔」がみえる。建保元年(一二一三)正月一三日に石見守に補任された範宗は藤原信西(通憲)の孫基明の子で、文治元年正月二〇日に安芸守に補任。建暦元年正月二一日には範光卿の申請により丹後守に補任されており、知行国主は範光であった。範季の娘を室とし、範光はその兄弟範兼の子である。範季は兄範兼の養子となり、範兼の死後は範光らを育てた。公卿補任によると文治二年三月に安芸守を止められたとし、三月四日には平基親が知行国主として確認できるが、吾妻鏡の同年四月四日条ではなお安芸国司であるように思われる。建久五年正月一一日に「殷富門院」(後白河の第一皇女)給により従五位下に進んだ。建仁二年七月二三日の範光卿拝賀では源有雅などとともに前駆を務めている。建保元年二月二日に範宗を含む後鳥羽の近習が職を解かれたが、その時点で石見守も解任されたのであろうか。ただし、そのためか承久の乱に連座することは無かった。また、知行国主であろう範光も同年四月五日に死亡している。
 これに対して、「参軍要略抄」には建保二年一二月一六日の後鳥羽院の宇治行幸が記され、その供奉人として「五位石見守信盛」がみえている。藤原範宗の後任として藤原信盛が石見守に再任され、石見国は後鳥羽院の分国となったと思われる。源定通が二度目の石見国知行国主となったのは四年後の建保五年で、四年後の承久三年に重任したのであろう。

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