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2018年2月24日 (土)

後醍醐天皇と毛利氏2

 花山院師継は承久の乱の直後に誕生し、母の兄弟二人が処刑され、その家族にも影響が出ていることを見聞きしたであろう。自らの姉妹には後鳥羽院の子で備前国児島へ配流され文永元年(一二六四)に死亡した頼仁親王の妃であった女性もいた。頼仁の子は配流されることなく出家している。そして師継は、幼年時に父季光をなくした女性との間に子師信をなしたのである。師継は二度目にモンゴルが龍来した弘安四年(一二八一)に六〇才でなくなるが、残された師信はまだ七才であった。師信は元応元年(一三一九)には内大臣に進み、その二年後に現職のまま四七才で死亡した。本郷和人氏のHP「中世朝廷の人々」によると、師信は後宇多上皇の二度の院政時にともに伝奏を務める等大覚寺統系の人物であったが、持明院統の花園上皇もその日記で師信の死を惜しんでいるとのことである。
 花山院忠経の兄弟には出雲国最大の庄園安楽寿院領佐陀社の領家であった円雅がいた。この見解は石井進氏によって説かれたが、保立道久氏により異説が提唱された。その検討は過去のブログを見ていただきたいが、石井説が正しい。同じく忠経の兄弟である家経の孫五辻忠継の娘として文永五年(一二六八)に生まれた女性がいた。その年に実父が出家したため、花山院師継の養女となり、その後、後宇多天皇の後宮に入り正応元年(一二八八)に男子を生んだ。文保二年(一三一八)に即位して鎌倉幕府を打倒することになる後醍醐天皇である。師信の子師賢は元弘の乱で後醍醐の側近として活躍したが、幕府方に捕らえられ、倒幕実現の半年前に配流先の下総国で病死した。三二才であった。 
  南北朝動乱が始まった建武三年時点で、毛利氏は安芸国にいた親衡の子で一四才の少輔太郎以外(越後の毛利氏惣領を含む)は後醍醐方であった。その背景には毛利季光の娘の夫師継の養女となっていた女性が後醍醐天皇の母であったことがあるのではないか。一方、少輔太郎は幕府方となり尊氏の側近高師直と経光の子で安芸毛利氏の祖となった時親にちなんで師親と名乗ったが、師直・師泰兄弟が失脚して殺害されると、その名を大江広元をルーツとすることを示す元春に改名した。毛利氏は時親の室亀谷局(長崎泰綱の娘であるが、細川重男氏と森幸夫氏の研究では無視されている)を通して長崎氏や北条氏、さらには楠木氏と関係を有していたことを過去に述べたが、後醍醐天皇との関係もあったのである。
 当初書き始めた際は、関係者が承久の乱と宝治合戦で相次いで死亡した花山院師継に焦点をあてて述べる予定であったが、書きながら調べ考えた結果、毛利氏に関する新たな情報を確認できた。

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