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2018年2月 4日 (日)

12世紀後半以降の石見国司1

 富永恵美子氏「賀茂別雷神社領石見国久永庄についての一考察」で、この問題について述べられているので、検討してみたい。富永氏は中世史ハンドブック、日本史総覧Ⅱについて言及されていないが、両者との一致点と修正点が明確であればなおよかった。
 藤原永範までは摂関家家司であった点はすでに述べた。後任は藤原為行で、仁安元年(一一六六)一〇月一〇日から嘉応元年(一一六九)一一月二五日まで現任が確認できる。承安四年(一一七四)から安元二年(一一七六)にかけては備後守であったことが確認できる。永暦元年(一一六〇)九月二日に飛騨守に補任され、応保元年一一月二九日に解官された「為行」も同一人物であろう。保元二年正月二四日に飛騨守に補任され、翌年八月に現任が確認できる源季長は石見守季兼の子で、為行解任後の応保元年一一月から長寛二年六月まで飛騨守現任が確認できる。富永氏は『愚管抄』に院の近習(北面下臈)としてみえる為行とも同一人物とされる。備後前司為行が清盛のクーデター時に殺害されており、後白河の近臣であったことは確実である。嘉応元年一〇月には久利郷司清原長房の訴えが 認められ、河合友弘の押狩が停止されている
 次いで嘉応二年(一一七〇)正月一八日に高階経仲が石見守に補任されたが、翌承安元年(一一七一)一二月八日の除目で藤原有定に交代し、常陸守に補任されたが治承三年(一一七九)一一月二三日に清盛のクーデターで解官されている。解官前の知行国主は父泰経であった。経仲は配流されたが翌年に召還されていおる。経仲は院近臣泰経の子で、文治元年には父とともに義経との関わりにより解官されているが、後に許され、公卿になって七〇才で死亡している。
 藤原有定は院近臣葉室成頼の猶子で、成頼の申請により石見守に補任されたが、承安四年(一一七四)正月二一日には院近臣藤原朝方の子で前出雲守朝定が石見守となった。有定は約二年で交代したが、他国での国司補任は確認できない。成頼は同年正月に出家しており、同じくその養子となっていた宗頼(実父は成頼の兄光頼)も、後白河の近臣として登用された同母兄光雅に昇進で劣っていた。但し文治元年一二月に光雅が義経関係者として解官されたのに対して、宗頼は高階泰経に替わって大蔵卿となり、以後は九条家と結んで出世する。光雅の子親俊が建仁二年(一二〇一)に出雲守に補任されたのは養父宗頼のとの関係であった。実父光雅は前年三月に死亡している。
(補足)為行は承安四年九月一〇日には申請していた最勝光院への所領(村櫛庄ヵ)寄進が後白河・建春門院に伝えられている。弟為保が仁安二年には隣国の駿河守に見任している(安元二年には上総介に見任)。為保も治承三年のクーデターで殺害される。

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