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2018年2月

2018年2月28日 (水)

鎌倉末期の出雲国司3

 元応元年(一三一九)閏七月九日六波羅御教書によると、出雲国雑掌重氏・源誉等が塩冶・古曽石・美保・生熊郷の下地・年貢について訴え、知行国主である左大臣洞院実泰が幕府に訴状を副えて訴えている。これを受けて六波羅探題が出雲国守護信濃大夫判官貞清に代官を進めて弁明することを求めている。塩冶・美保・生馬は貞清が地頭であり、残る古曽石同様で、守護としてではなく地頭正員としての貞清に伝えられたものであった。嘉暦元年(一三二六)二月一九日には園基隆が出雲守に補任されているが、一三才である。その母は小倉実教の娘であり、実教ないしは基隆の父基成が知行国主ではなかったか。実教は洞院実雄の孫で、実雄と一条頼氏の娘との間に生まれたのが実教の父小倉公雄であった。洞院実泰と実教は従兄弟であった。実泰の父公守の姉妹が後宇多院の母であることもあって、この時点の実泰は大覚寺統系であろう。実泰の子公賢は後醍醐の寵姫阿野廉子の養父となっている。
 以上まとめると、弘安四年に亀山院の分国となったが、弘安六年以降は持明院統系の分国であったと思われる。建治元年に伏見が後宇多の皇太子となり、持明院統が復権する中、それぞれの利権について両統で線引きがなされたと思われるが、出雲国は持明院統の縄張りに入った。ただし、文保二年(一三一八)二月二六日に大覚寺統の後醍醐天皇が即位したことで、再び大覚寺統系に移ったと思われる。嘉暦二年九月五日関東御教書によると杵築大社造営料米について文保二年一二月二五日御教書で、一万一八七〇余石を充てて造営を終えるように定めたが、勘定したところ七五八〇余石が治定した。そのため正応・永仁の例に任せて当国反別三升米を充課して造営を遂げるように神主に命じている。大覚寺統に替わったことで、文保二年に新方針が出されたのであろう。
国守                               分国主
                                                   
某     ~一二八三年三月              亀山院
平兼有   一二八三年三月~一二月         後深草(伏見)ヵ
某     一二八三年一二月~一二八四年七月      後深草(伏見)ヵ
平忠俊   一二八四年七月~                          後深草(伏見)ヵ
菅原長躬  一二八九年以前                            後深草(伏見)ヵ
某惟賢   ~一二八九年四月~                        後深草(伏見)ヵ
堀川親方   ~一二九六頃                後深草(伏見)ヵ
某      ~一三〇一年一月               日野俊光
橘宗成      一三〇一年一月~一三〇三年八月以前  中御門為方
某     一三〇三年八月以前~一三〇五年一二月 西園寺公衡
藤原致連  一三〇五年一二月~             ?
某     ~一三一九年閏七月~         洞院実泰(大覚寺統系)
園基隆   一三二六年二月~           小倉実教(同上)ヵ

☆松江市史通史編2中世に西田氏作成の表があるが、国守に菅原長躬と堀川親方を加え、知行国主から藤原家時を削除し、中御門某を西園寺公衡に修正し、大覚寺統系と持明院統系の区別を明確化した。

鎌倉末期の出雲国司2

 話を出雲国司に戻すと、問題となるのはいつまで亀山院分国であったかである。弘安六年(一二八三)三月二八日には入道少納言平輔兼の子兼有が出雲守となったが、年末の一二月二〇日に少納言となるとともに出雲守を辞し、翌年には昇殿を認められている。兼有は永仁五年の宮内卿補任をへて正和元年閏六月九日に従三位に進んで公卿となった。持明院統寄りの経歴である。兼有の後任者は不明であるが、辞任半年後の弘安七年七月二六日には平忠俊が出雲守に補任されている。この人物についても関係史料がなく不明である。それは同日に日向守となった藤原惟房についても同様である。院の北面ないしは外記系の人々であろう。
 『勘仲記』正応二年三月二日条には御書所始があり蔵人佐俊光が奉行を行い、覆勘として前出雲守長躬朝臣がみえる。これに先立ち弘安七年三月二〇日には地下儒士として長躬がみえる。(下別当儒士交名)。長躬も持明院系の人であろう。正応四年正月の除目では従四位上に進んでいる。同年六月二四日の北野社法華堂供養には御布施取殿上人として仲兼・俊光とともに菅長躬(大□司)がみえている。
 正応二年(一二八九)四月二一日胤仁親王(後伏見)立坊定文の三日目の饗に「警陣 出雲 惟賢」とみえ、某惟賢が出雲守であった。二日目の饗には「警陣 伯耆 長隆」とあり、葉室長隆が伯耆守であったが、四才にすぎず、父葉室頼藤が伯耆国知行国主であった。惟賢については他の情報がないが、持明院統の院に仕える北面ではなかったか。
 永仁四年(一二九六)か五年に比定できる二月一八日九条忠教御教書の奏者として前出雲守親方がみえる。堀川俊嗣の子親方である。御教書は蔵人頭兼兵部卿である堀川光泰に宛てて出され、二月二八日に光泰が奏者となる伏見天皇綸旨が出されている。光泰は石見守光世の兄で、親方の従兄弟である。親方は正和5年には氏長者の御教書の奏者としても「治部卿親方」がみえる。親方が出雲守であった時期も出雲国は持明院統が支配していた。
 後二条天皇の即位に伴い、正安三年(一三〇一)正月一六日には知行国主が藤中納言日野俊光から中御門為方に交代しているが、いずれも持明院統系の公卿である。為方は土佐国からの遷任である。嘉元元年(一三〇三)四月一一日にも為方の現任が確認でき、国守は橘宗成である。宗成は『勘仲記』正安二年一月二〇日条には「壱岐左近大夫」とみえ、本人は橘氏の系図にはみえないが、弘安七年一一月に壱岐守の現任が確認できる橘邦範の子ないしは関係者であろう。その後、嘉元元年八月二二日の時点では問題の某(西園寺公衡であろう)が知行国主であった。次いで嘉元三年一二月三〇日には藤原致連が出雲守に補任されているが、公衡は同年閏一二月二二日に伊豆国と伊予国の知行国を召放たれているが、同時期に出雲国も失ったのではないか。伊豆国は花山院師信に、伊予国は九条師教に交替している。公衡は徳治元年二月二〇日に勅免となり、伊予・伊豆国の御厨については返されている。後任の国司藤原致連については全く関係史料を確認できていない。

鎌倉末期の出雲国司1

 弘安四年(一二八一)に亀山院の分国となったことは祇園社の記録から明らかであるが、その時点の知行国主と国守については確認できない。松江市史で示された「侍従三位」は知行国主ないしは国守ではなく、漆治郷の領家に関わるものである。また、弘安四年時点の侍従三位も藤原家時ではなく一条能清である。
 能清は一条家当主頼氏と六波羅探題北条時房の娘との間に嘉禄二年(一二二六)に生まれている。頼氏の父高能は建久九年(一一九八)に二二才で死亡し、頼氏には二人の兄がいたが、外祖父が松殿基房であったこともあって当主となった。嘉禎元年には正四位下右兵衛督となり、翌四年に従三位に進んで公卿となった。一条氏関係者が多数かかわった承久の乱の際は京都を脱出して鎌倉へ逃れた。その長子能基は時房の娘を母に承久二年に誕生しており、乱以前に北条氏関係者ともなっていた。貞応三年に北条義時が死亡した際には後室伊賀氏が頼氏の叔父実雅を将軍に擁立しようとしたともいわれ、実雅は越前に配流されたが、頼氏は荷担していない。ただし頼氏は宝治二年に死亡した際にも非参議であった。延応二年五月一二日に将軍御所で行われた歌会にも「一条少将」(この年に左近衛少将)能清がみえる。
 なぜ一条氏について述べるのかと思われるであろう。能清は嘉禎二年(一二三六)八月四日に将軍頼経が若宮大路に新造された御所に移った際に付き従う人々に「一条大夫能清」がみえるように、一一才であるこの時点で鎌倉に祗候していた。頼経の父九条道家の母は一条能保の娘であった。建長三年一月一一日に将軍頼嗣が鶴岡八幡宮に参詣した際に同行した殿上人にも能清がみえる。翌年二月に頼嗣は将軍を辞職させられ京都に戻ったが、宗尊親王のもとでも能清やその兄能基、弟定氏、さらには能清の子公冬が鎌倉で活動している。ただし朝廷での官位の上昇は遅れ、公冬や能基の子公仲は叔母の夫である洞院実雄の猶子となり、正応二年並びに嘉元四年に非参議従三位に進んでいる。ちなみに公冬の父能清は文永六年、その兄で公仲の父である能基は文永五年に従三位に進んでいる。
 北条時輔の外祖父の補足記事で、,三浦(佐原)氏一族の女性が最初は真野宗連と結婚し、後に一条左衛門督実遠の後室となったことに触れたが、実遠は一条公冬の子である。公冬の養父となった洞院実雄の名をとって実遠と名乗ったのであろうか。御家人真野一族の女性が一条実遠の室となったのも、実遠の父までは関東祗候の殿上人であったためであろう。

石見守安倍朝臣

 正応元年二月以前から四年七月以前にかけて知行国主三条実重のもとで石見守であった安倍朝臣某については、以下のような関連史料が確認できる。
 ①石見守退任後の正応四年七月と九月には関白左大臣家九条忠教政所下文の署判者として「大従前石見守安倍朝臣」がみえる。政所の実務職員(大従)であった。九条忠教の母は三条公房の娘であり、忠教と実重の父公親は従兄弟であった。安倍某と忠教の関係は必ずしも固定的ではなく、正応五年一二月の忠教政所下文の大従は同族と思われる前能登守安倍朝臣であった。ところが正応六年二月に忠教が関白を退任した後の六月の忠教政所下文では再び大従として前石見守安倍朝臣がみえる。
 ②嘉元元年八月二八日に出雲国知行国主某が杵築社仮殿造営に関する院宣を目代に伝える国宣を出している。その奏者は左衛門尉某であるが、それと同日に国宣と院宣を出雲国造に示して沙汰をするように命じた御教書が出されている。その奏者は前石見守であるが、その花押は正応年間の石見守安倍朝臣の花押と一致している。
 ③徳治二年七月一二日には後宇多上皇院宣が出され、大和国山口庄の相伝を安堵したことを摂関家氏長者の側近石見前司に伝えている。この石見前司も安倍朝臣と同一人物であろうが、この時点の氏長者は二条兼基であった。二条兼基は正応四年には三条実重の後任の石見国知行国主となっていた。
 問題は②の出雲国知行国主が誰かであるが、様々検討した結果、一五年前の論文で示した西園寺公衡で間違いないことを確認した。西田氏が候補とされた吉田(中御門)経継よりは花押の類似性で勝るのみならず、当時の出雲国知行国主を持明院統系の公卿が務めていることとも合致している。経継は大覚寺統系の公卿で、且つ前年の乾元元年に四六才で参議に抜擢されたばかりであった。嘉元三年には権中納言に進み評定衆となったが、延慶元年の持明院統の伏見院政の開始から大覚寺統の後宇多院政の再開まで昇進はストップしている。まさに大覚寺統系の人であった。父吉田経俊の時点では~系といった区別はなかったが、経俊は後嵯峨・亀山上皇の院宣の奏者としてはみえても、後深草上皇の院宣の奏者としてはみえない。すでに述べたが、中納言に加えて治部卿を兼務してからも、文書に記した肩書きでは治部卿だけでなく中納言も使っている。
 話をもとに戻すと、経継と安倍朝臣との間には接点はないが、西園寺公衡はあるのである。公衡の父実兼の姉妹が九条忠教の室となっている。そして忠教の娘が兼基の室となり、兼基の姉妹が忠教の室の一人としてみえている。安倍朝臣が仕えた三条実重、九条忠教、西園寺公衡、そして二条兼基の間には婚姻を通じた関係がみられるのである。安倍朝臣はその実務能力を買われ、様々な家の管理にあたっていた。逆に言えば、摂関家ですら自前のメンバーで政所を運営することは不可能となっていた。
 西園寺公衡の知行国として著名なのは伊予国であり、西園寺家の当主が一時期を除けば知行国主を独占している。それが嘉元三年閏一二月二二日に伊豆国とともに知行国を剥奪され、伊予は九条忠教の子師教、伊豆国は花山院師信に与えられている。何が原因だったのか未確認だが、一時的な失脚と考えられる。これに対して出雲国の場合は失脚前の嘉元三年一二月三〇日には国守が藤原致連に交替している。こちらは通常の交替であり、伊予・伊豆両国が間もなく西園寺に返されたのとは違っている。
付記:なぜか西園寺公衡が石見国知行国主となっていたが、出雲国に訂正した。出雲国知行国主は嘉元元年一一月一日に二条道平に交替していた。

2018年2月27日 (火)

北条時輔の外祖父の補足

 北条時輔の外祖父(母将軍家讃岐の父)については、前に佐原次郎盛連(遠江守)であろうとの説を提示したが、『吾妻鏡』にあるように外祖父は文応元年(一二六〇)に死亡しているので、天福元年(一二三三)死亡の盛連ではない。盛連の兄弟には紀州国守護となった三郎家連(左衛門尉、肥前守)と太郎左衞門尉景連等がいるが、盛連の子は父の後室矢部尼(北条泰時前室)の意見に従い、時頼方となった。
 前者については『吾妻鏡』仁治四年七月一七日条の「御共結番之事」が終見史料で、その子たちは、宝治合戦で討たれている。大友頼泰の母も家連の娘であり、家連自身は文応元年まで生きていた可能性がある。
 後者については系図ではその子として蛭河又太郎景連が記されているのみであるが、嘉暦元年七月二四日に所領の安堵を求めている真野左衛門六郎宗明もその子孫である(鎌倉遺文二九五三六)。そこに記された系図によると、景連の子には真野五郎左衛門尉胤連がおり、宗明はその一族と思われる。
 真野左衛門尉宗連と結婚し、その後公家と思われる一条左衛門督実遠と再婚してその後室となっていた女性が、宗連女子阿弥〻に丹後国大内郷内末吉・菊貞両名を譲り、元応元年五月一二日に安堵を受けた。宗連女子には子がなかったため両名を元応二年二月一三日に舎弟である真明に譲った。その姉阿弥〻が死亡したので、公明が嘉暦元年に幕府に外題安堵を求めたものである。
 これにより宝治合戦後に三浦氏惣領となった盛連(その後室は三浦義村の娘)系以外に、景連系で生き残っていた人々がいたことがわかる。時輔の母である将軍家女房讃岐(尼妙音)の父の候補として、家連並びに景連兄弟を考えることができる。

2018年2月25日 (日)

鎌倉初期の隠岐国司6

   隠岐守            知行国主
藤原惟頼(1176~1179~?)
某ヵ
源仲国(~1188~)                 後白河院ヵ
中原師尚(1190~1192)            九条兼実ヵ
藤原重季(?~?)                 九条兼実ヵ
某                                        ?
藤原重季(1194~?)              九条兼実ヵ
中原師季(?~?)                 九条兼実ヵ
藤原成行(1199~)                 藤原公時
藤原範基(1202~1204?)    藤原範光
某親重(?~?)                   ?
藤原有通(1206~)        中山兼宗
源仲家(1207~?)        後鳥羽院
某(?~1214)                    ?
源仲家(1214~?)        後鳥羽院
二階堂行村(1218~)       某

佐々木義清と淡輪庄

   安貞2年(1228)5月日の近衛家実政所下文では、摂関家領和泉国淡輪庄下司左衛門尉兼重の非法停止が命じられている。この政所下文の別当として署判を加えている前隠岐守源朝臣を隠岐国守護佐々木義清に比定した理由を述べる。
 近衛家実は承久三年(一二二一)以来摂関家氏長者であったが、安貞二年一二月二四日に西園寺公経と九条道家の工作により准摂政兼関白を辞任に追い込まれ、関白と氏長者は道家に交替した。次いで道家の子教実が関白・氏長者となった。天福二年(一二三四)五月二〇日前左大臣九条良平政所下文では、武家(幕府)下知状に任せて左衛門兼重自由沙汰を停止し、地頭職を改めて元の下司職に戻すことが命ぜられている。教実はこの前年の天福元年に後堀河天皇中宮(九条道家娘)と後堀河院が相次いで死亡したことに衝撃を受け、後鳥羽院の怨念をなぐさめるためその帰京を幕府に働きかけたが失敗し、失意のもとに文暦二年三月二八日に死亡している。こうした状況下、道家の叔父である良平が淡輪庄の問題で政所下文を出したのであろうか。この可能性は低く、この後淡輪庄は良平が九条家の祈願寺として建立した成恩院領となっており、摂籙渡庄から九条家領となり、良平がこれを得たとすべきであろう。
 佐々木義清は和泉国淡輪庄に直接関係してはいないが、これ以降没落した下司兼重に替わって公文として庄内を支配していく同族の橘刑部丞重基は、新恩地頭として得た隠岐国那具村から淡輪庄に復帰した人物であった。当然、佐々木義清の当時の活動の中心は京都であった。それはすでに述べたように、隠岐国の後鳥羽院、但馬国の雅成親王、備前国の頼仁親王という三人の配流された人々を監視するためであった。そして義清は嫡子で出雲国守護を譲った政義を鎌倉で活動させ、弟で隠岐国守護を譲った泰清を六波羅探題のある京都周辺で活動する在京人とした。近衛家は義清の重基への影響力を背景に、今回の下文については政所別当としたのであろう。義清の花押は外に残っておらず、貴重なものである。なお近衛家は長井氏一族でやはり在京人として活動する泰重-頼重-貞重を摂津国垂水東牧中条の年預に起用していた。

鎌倉初期の隠岐国司5

 建保六年一一月二一日には幕府御家人二階堂行村が隠岐守に補任されている。二階堂氏は大江氏、三善氏と同様京下りの公家出身である。行村は二階堂行政の子で、検非違使として鎌倉幕府では治安維持を担当し、隠岐守補任の翌年正月二七日には出家しているが、嘉禄元年には幕府評定衆に補任されるなど、現職で活動していた。承久記によると後鳥羽院が催した公卿・諸将の中に石見前司とならんで隠岐守がみえているが、具体的人物への比定は不明である。過去に石見守を務めた源頼兼の子頼茂は源実朝の側近であったが、承久元年に鳥羽院によって滅ぼされている。隠岐守は二階堂行村の可能性はあるが、『吾妻鏡』五月二三日条に鎌倉に留まった宿老の中に隠岐左衞門入道行阿(行村)がみえている。
 二階堂氏一族は北条氏を除けば幕府御家人で最も多くの国守に補任されている。知行国主との個別的関係もあろうが、その経済力を背景に働きかけた実現したのではないか。隠岐国守護佐々木氏が義清-泰清-時清-清高(清高の父宗清は確認できない)
 嘉禄元年に行村は評定衆に選ばれているが、そこには隠岐守とあり、承久の乱後も隠岐守であった可能性が強いが、安貞元年(一二二七)三月一一日には出雲・隠岐両国守護佐々木義清が隠岐守に補任されている。義清はこれに先立ち嘉禄元年(一二二五)正月二七日には出雲守に補任されていた。
 安貞二年五月日禅定従二位近衛家実家政所下文の署判者に別当前隠岐守源朝臣がみえる。佐々木義清と源仲家が候補となるが、源家長の例によると仲家の可能性は低く、義清であろう。なぜ御家人が政所別当にとの疑問が出かもしれないが、この時期の近衛家の政所下文をみると体制の再構築期であるからか、数は少なく且つ別当はすべて異なっている。嘉禎元年九月日(前太政大臣=家実)となると体制が整備されたのか別当右大弁藤原(光俊)以下六名署判という本来の形になっている。

鎌倉初期の隠岐国司4

 承元元年(一二〇七)正月一四日の除目で有通に替わって隠岐守となったのは源仲家である。建保元年(一二一三)二月二七日には閑院内裏が完成して還幸が行われているが、そこでは隠岐守伊家がみえ、同年四月一四日の賀茂祭に関する記録では前隠岐守仲家とみえる。ところが間もなく再任されたようで、建保二年四月二四日と翌三年五月二日、六月四日にも隠岐守現任が確認できる。後鳥羽院の上北面として源仲家がおり、そこから国守に起用されたと考えられる。伊家については嘉禎三年正月一四日には前安房守とみえるが、系譜上の位置づけは確認できていない。
 仲家は仲盛の子で源高明九世の孫である。醍醐-高明-忠賢-守隆-長季-盛長-盛家-盛定-仲盛-仲家と続くが、忠賢は安和の変で父とともに失脚しており、その後も公卿に進まず、受領を歴任してきた。仲家の従兄弟時長の子家長が残した『源家長日記』は後鳥羽院に仕えた日々を回想する和歌史上の貴重な史料だとされている。家長は建保六年正月一四日に知行国延暦寺のもとで但馬守に補任され、承久二年九月一九日の時点でも現任が確認できるが、承久の乱後は官を辞したという。仲家の承久の乱との関わりは不明だが、同様の状況ではなかったか。家長は寛喜元年三月二一日には定家のもとを訪れ殿下北面に参ることを望んでいる。
 後鳥羽院の熊野御幸に関する和歌懐紙として正治二年(一二〇〇)と建仁元年(一二〇一)のものが残されているが、それと関連する熊野類懐紙に右馬権助源仲家の作品も含まれている。建久九年正月一一日に後鳥羽院の院司が定められたが、蔵人として源仲家がみえる。次いで正月三〇日の除目では式部大丞に補任された。同年一二月九日には木工頭源仲家とみえる。建久年三月二三日の除目では右馬権助に補任され、四月二四日の賀茂祭に派遣された使としても馬助仲家がみえる。『明月記』一一月六日条には定家が仲家から内裏名所百首和歌御会について聞いたことを記している。仲家が後鳥羽の側近であったことがわかる。建保元年(一二一三)七月三日に後鳥羽院に貞観政要が進講された際の記事、後鳥羽院による建保五年六月一日の河上御幸、動六年四月八日の最勝寺御幸の記事にも仲家がみえる。この時期の隠岐国は後鳥羽院の分国ではないか。

鎌倉初期の隠岐国司3

 正治元年(一一九九)九月二三日の除目では藤原宗明の子成行が隠岐守に補任された。この年に成行の祖父藤原実教は正二位権中納言の補任されている。知行国主は三条実国の嫡子公時で、その母である女性と実教は兄弟であった。翌二年七月二八日には中原師尚の孫師季が隠岐前司としてみえるが、その在任期間は宗明の前であろう。次いで建仁二年(一二〇二)一月三〇日の除目では藤原範光の子範基が出雲守に補任された。範基は治承三年(一一七九)の生まれで二四才。父は四九才であり、建仁元年には従三位、翌年には参議となっており、知行国主であった可能性が高い。
 元久二年(一二〇五)閏七月には北条時政が失脚に追い込まれ、京都守護であった女婿平賀朝雅が幕府が派遣した御家人により殺害されたが、関係系図には派遣された人物として「隠岐前司親重」がみえる。『吾妻鏡』『玉葉』にはその名がみえず、江戸親重や元久二年に対馬守に補任された源親重との関係、その補任時期も不明である。
 翌元久三年(一二〇六)二月二八日に隠岐守としてみえる藤原有通は承元二(一二〇八)年一一月一一日には対馬守(同月二七日に日吉祭に使者として派遣された対馬守有道も同一人物であろう)と、次いで建保三年(一二一五)二月二三日には前対馬守としてみえる。一方、承元元年正月一一日に藤原公国に替わって対馬国知行国主となった中山兼宗は、その前任が隠岐国知行国主であった。知行国主中山兼宗と国守藤原有通のコンビで承元元年正月に隠岐国から対馬国に遷任したものであろう。
 両者の間に血族・姻族としての直接的なつながりは確認できず、二国以外での国主・国守の補任もない。強いて言えば、両者の母方の曾祖父である為隆と顕隆は兄弟である。また、有通の姉妹が九条兼実の同母弟兼房の室となっている。兼宗は兼実が後鳥羽天皇の関白であった建久四年に蔵人頭、六年に参議に進んでおり、九条家を介して有通とつながった可能性も指摘できる。兼宗の父で日記『山塊記』を残した忠親は有職故実に明るく、平家との関係からその都落ち後一時的に昇進が停滞したが、その知識から文治元年に頼朝が吹挙した議奏公卿に選ばれた。その子兼宗も歌人として勅撰和歌集にその歌が選ばれている。九条兼実にも歌会を通じて接近した可能性がある。さらに言えば、中山兼宗の母方の祖父藤原光房は有通の祖父伊実の姉妹で近衛天皇の中宮となった呈子の中宮亮となっている。

鎌倉初期の隠岐国司2

 次いで学問の家中原氏出身の大外記師尚が文治六年(一一九〇)一月二四日に隠岐守に遷任してきているが、前任の国守については明らかではない。建久三年(一一九二)正月の除目で隠岐守は辞任し、その三年後の建久六年二月には対馬守に補任されている。隠岐国の前任である某国を含めて三ヶ国の国守経験があった。建久二年摂政前太政大臣九条兼実家政所下文の署判者に隠岐守中原朝臣がみえるように、九条家と密接な関係を有していた。
 『玉葉』建久四年一二月九日条で摂津国と隠岐国の受領功過について述べられているが、この時点の摂津守は建久六年正月二〇日に摂津守現任が確認できる源長俊である可能性が強い。建久八年正月二〇日の除目で中原師直と交替しているが、隠岐守であった師尚と同一人物であろう。ただしこの年の五月二日には死亡している。その死亡に際して藤原定家は大外記としての器量は文治五年に死亡した清原頼業には及ばないとコメントしている。外記は七位相当の少外記と六位相当の大外記からなり詔勅を作成し、儀式・公事の奉行を行い、先例を調査し上申した。
 源長俊は摂関家家司である季広を父とする。祖父季兼は石見守・対馬守を知行国主藤原忠通のもとで務め、各地で摂関家領の立券に貢献した。季広は当初松殿基房の職事になったが、源義仲とともに基房が没落すると、九条兼実の家司となった。それを継承したのが重俊であった。隠岐知行国主は九条兼実であろう。
 建久五年(一一九四)一月三〇日の除目で隠岐守に復任したのは讃岐守の経験を持つ藤原重季であったが、これ以前の隠岐守補任の時期は不明である。重季は受領を歴任した季行の子で、その姉妹には九条兼実の室となった女子がおり、重季の孫娘が近衛家実の室となったように摂関家との関係が強かった。建久九年(一一九八)二月の即位叙位では九条兼実の娘である中宮宜秋門院御給により正四位下に除されている。この時点では隠岐守は後述の中原師季に交替していたと思われる。建久年間の隠岐国知行国主は九条兼実、ないしはその一族であろう。

鎌倉初期の隠岐国司1

 隠岐国司を検討する中で二階堂氏について分析した。瓢箪から駒というのが実感であった。隠岐国は小国ではあるが、日本海水運の発展を背景に、決して貧しい僻地ではなかった。鎌倉時代の隠岐守に関する史料は文治四年以降のものしか確認できないので、平安末期の状況を踏まえて考えたい。
 安元二年正月三〇日に隠岐守に補任された藤原惟頼の見任(現任)が治承三年一〇月二五日の時点でも確認できる。問題は一一月一四日のクーデター、さらには義仲のクーデター(一一八三年一一月)との関係であるが不明とせざるを得ない。ただし、頼朝の重臣藤原重頼との関係をみれば、惟頼は一旦解任されたにしても復活した可能性が高い。それがゆえに、後任の隠岐守源仲国から批判を受けたのだろう。仲国は源実朝の側近として活躍した仲章・仲兼兄弟の兄にあたるが、三人とも後白河-鳥羽院にも仕えていた。
 仲国は、文治四年(一一八八)以降に隠岐守として、鎌倉幕府の影響下にある藤原宮内大輔重頼や在庁官人である内蔵資忠らと対立した。『平家物語』の「小督」に登場するように平家ではなく院の近臣であったために、生き残ったものである。隠岐国でもかなりの所領が平家没官領・謀反人跡として頼朝に与えられ、その有力御家人が地頭に補任された。重頼と守護佐々木定綱とその子広綱との関係は不明だが、出雲国杵築社神主でもあった内蔵資忠は隠岐国の有力在庁官人であったと思われる。これに対して源光遠の子で丹後局の縁者を妻とする仲国は、当該所領は平家没官領ではなかったとして、地頭の停止を求め、資忠に対しては隠岐国在庁官人としての務めを果たすことを求め、後白河院からは杵築社神主から資忠を解任すべきと、その支持者である頼朝に要求が突きつけられた。
 仲国は建久三年(一一九二)一一月から翌四年三月にかけては備前守の現任が確認できる。当時の知行国主は、建久三年六月の時点では後白河院、翌四年四月九日の時点では一条能保であるが、仲国は後白河の院分国下の国司であった可能性が高い。それは隠岐国も同様であったと思われる。若狭守、伊勢守であったとの情報もあるが関係史料を確認できなかった。建保三年六月の時点では薩摩国知行国主の現任が確認できる。ただし、建永元年には後白河院の託宣だと称して御廟建立を唱えたことが批判を受け、妻とともに追放された。

2018年2月24日 (土)

後醍醐天皇と毛利氏2

 花山院師継は承久の乱の直後に誕生し、母の兄弟二人が処刑され、その家族にも影響が出ていることを見聞きしたであろう。自らの姉妹には後鳥羽院の子で備前国児島へ配流され文永元年(一二六四)に死亡した頼仁親王の妃であった女性もいた。頼仁の子は配流されることなく出家している。そして師継は、幼年時に父季光をなくした女性との間に子師信をなしたのである。師継は二度目にモンゴルが龍来した弘安四年(一二八一)に六〇才でなくなるが、残された師信はまだ七才であった。師信は元応元年(一三一九)には内大臣に進み、その二年後に現職のまま四七才で死亡した。本郷和人氏のHP「中世朝廷の人々」によると、師信は後宇多上皇の二度の院政時にともに伝奏を務める等大覚寺統系の人物であったが、持明院統の花園上皇もその日記で師信の死を惜しんでいるとのことである。
 花山院忠経の兄弟には出雲国最大の庄園安楽寿院領佐陀社の領家であった円雅がいた。この見解は石井進氏によって説かれたが、保立道久氏により異説が提唱された。その検討は過去のブログを見ていただきたいが、石井説が正しい。同じく忠経の兄弟である家経の孫五辻忠継の娘として文永五年(一二六八)に生まれた女性がいた。その年に実父が出家したため、花山院師継の養女となり、その後、後宇多天皇の後宮に入り正応元年(一二八八)に男子を生んだ。文保二年(一三一八)に即位して鎌倉幕府を打倒することになる後醍醐天皇である。師信の子師賢は元弘の乱で後醍醐の側近として活躍したが、幕府方に捕らえられ、倒幕実現の半年前に配流先の下総国で病死した。三二才であった。 
  南北朝動乱が始まった建武三年時点で、毛利氏は安芸国にいた親衡の子で一四才の少輔太郎以外(越後の毛利氏惣領を含む)は後醍醐方であった。その背景には毛利季光の娘の夫師継の養女となっていた女性が後醍醐天皇の母であったことがあるのではないか。一方、少輔太郎は幕府方となり尊氏の側近高師直と経光の子で安芸毛利氏の祖となった時親にちなんで師親と名乗ったが、師直・師泰兄弟が失脚して殺害されると、その名を大江広元をルーツとすることを示す元春に改名した。毛利氏は時親の室亀谷局(長崎泰綱の娘であるが、細川重男氏と森幸夫氏の研究では無視されている)を通して長崎氏や北条氏、さらには楠木氏と関係を有していたことを過去に述べたが、後醍醐天皇との関係もあったのである。
 当初書き始めた際は、関係者が承久の乱と宝治合戦で相次いで死亡した花山院師継に焦点をあてて述べる予定であったが、書きながら調べ考えた結果、毛利氏に関する新たな情報を確認できた。

後醍醐天皇と毛利氏1

 鎌倉時代の毛利氏が宝治合戦で大きな負の影響を蒙ったことはよく知られているが、後醍醐天皇との関係は知られていない。強いていえば南北朝期に幕府方として活躍した毛利元春の父親衡(親茂)が何故か南朝と結ぶ動きを示して子元春と対立していたことであろう。実際に動乱が始まった時点では一四才であった元春を除く毛利氏一族のほとんどすべてが南朝方であった。その背景を毛利氏の娘を室とした公卿を通してみていきたい。
 花山院忠経という公卿がいた。花山院忠雅と平清盛の娘を母として承安三年(一一七三)に生まれており、それだけでも特別だが、さらに忠経は一条能保の娘と葉室宗行の娘との間に子をなしていたことが確認できる。一条能保の室は源頼朝の同母姉妹であり、多くの所領を得ていた。
  忠経の人生を暗転させたのは承久の乱である。能保の子信能と尊長、ならびに宗行本人は乱への関与によって処刑された。忠経自身は建保元年(一二一三)に出家し、それほど影響を受けることなく寛喜元年に五六才で死亡しているかにみえる。出家したのは能保の娘を母とする嫡子忠頼が一五才で同年に死亡したためであろう。その後嫡子となった宗行の娘を母とする経雅は、生年は不詳であるが、父に先立ち嘉禄元年(一二二五)に死亡している。
 経雅の同母弟である師継は乱後の貞応元年(一二二二)の生まれであるが、毛利季光の娘との間に建治元年(一二七五)には師信が誕生している。時に五四才であり、師信以外に六人の子(母は不詳)が確認できる。季光の娘の生年は不明だが、父季光は宝治元年(一二四七)六月の宝治合戦で妻の兄弟である三浦泰村方となり討たれているので、娘は遅くとも宝治二年までには生まれていたことになる。師信を生んだ時点では三〇才前後であろうか。父季光は死亡時四六才であった。季光の娘(姉)には北条時頼の正室とされる女性もいたが、乱により離縁されたと言われる。時頼と同年齢とすると宝治合戦の時点では二一才となる。季光の男子で生き残ったのは戦国大名毛利氏の祖となる経光と公家社会を中心に活動した師雄であった。経光は毛利氏領の一部の継承を認められたが、幼少であった女性は師雄とともに育ち、花山院家に仕えるようになったと思われる。師雄の名前は花山院師継の一字を与えられたものであろう。これらを勘案すると師雄と師継の室の女性の母は三浦義村の娘以外の人物であろう。

2018年2月22日 (木)

近衛中将藤原実春について

 調べている最中に脱線することも多いが、この人物について気になったので、調査結果を記しておきたい。きっかけは杵築大社庄園領主松殿兼嗣の嫡子通嗣(後に通輔)の母が閑院流の藤原実春の娘であったことである。ネットで検索すると北条泰時の娘の中にも三木中将実春の室となった女性がいたことがわかった。『吾妻鏡』によると閑院内裏が完成し還幸が行われたことの賞として実春は左近衛中将に進んでいる。そして、弘安六年七月三日関東下知状(鎌一四八九八)によると、肥後国御家人平河氏が肥後国球磨郡永吉地頭并名主職について越訴し、訴えを認められているが、その中に建長三年に実春朝臣が地頭職を、文永二年には名主職も押領したことが記されている。
 大江広元が関東御領である球磨御領五〇〇町の預所であり、平河氏はそのもとで三五〇町を占める永吉地頭としての権利を認められていたが、預所を譲られた実春が地頭についても自らのものだと主張したのである。実春が根拠としたのは嘉禄元年一一月御下文で、そこには永吉西村地頭職について外祖父沙弥覚阿譲状に任せて近衛侍従の御沙汰が認められている。
 この覚阿については平河氏について意見交換するネット上の場では本文中の広元とは別人ではないかとの意見が出されていたが、実春の母方の祖父が広元であり問題はない。その場でも実春の出自に関する情報が無いことが歎かれていたが、閑院流の徳大寺公能の子実家の孫実春である。その兄弟には報恩院僧正で蓮蔵院も支配した広元の孫実深がおり、嫡子と思われる実光についても母は大江広元の娘だと記されている。実深の拠点とした蓮蔵院には広元領が寄進されたが、同じ孫である実春は永吉の預所と地頭を譲られていた。大江広元の娘を室としたのは実家の嫡子公国であり、閑院流の西園寺公経の姉妹にも公国の室となった女性がみられる。実春については系図では名前と子として公春、孫として実員がいたことしか書かれていないので、光春の母と松殿兼嗣の室となった女性が泰時の娘であったかはどうかの確認はできない。
 実家の兄徳大寺実定が建久二年に死亡した際には頼朝が深いため息をついて残念がったことが『吾妻鏡』に記されており、知行国主実定のもとで、頼朝の側近梶原景時が美作国目代を務めていた。文治元年一二月に実定の後任の知行国主となったのは弟実家で、国守には実家の子公明が補任されていた。大江広元は嘉禄元年(一二二五)六月一〇日に死亡しており、それに伴い孫の実春への譲与が幕府によって安堵されたのが一一月の下文であった。兄弟である実光は建仁二年(一二〇二)、実深は建永元年(一二〇六)の生まれである。実春に関する情報がネット上で検索しても得られず困っていたが、なんとか閑院流だということで当たりをつけて系図集を見たところ確認できたので、まとめてみた。

2018年2月21日 (水)

長海本庄地頭持明院基盛2

 仁治元年閏一〇月に隠岐守系の行氏が父元行の所領肥前国鏡社、伊勢国益田庄、尾張国西門真庄、参河国重原庄、相模国懐島内殿原郷、 陸奥国信夫庄内鳥和田村等地頭職の継承を安堵されている。元行には嫡子行義に譲った所領もあり、これに政所執事を継承した二階堂氏の所領を合わせれば、二〇ヶ所以上となったと思われる。長海本庄も鎌倉初期に二階堂行政が与えられた所領である可能性が高い。
 「隠岐守」が誤りであるとしたが、基盛の「基」に着目すると、「頼行」が誤りである可能性も無視できない。すなわち「隠岐守行氏」の娘であり、基盛は二階堂氏領を継承した関係で曾祖父基行(元行、仁治元年死亡)にちなんでその名を付けたと。隠岐守系ならば、隠岐国や出雲国に所領を与えられる可能性はより高い。現時点では後者の説を有力としておく。行氏は弘長三年まで引付衆であったことが確認できる。持明院基盛が吾妻鏡に登場するのは文応二年(一二六一)三月二五日条の「持明院少将基盛」のみであるが、この時点で一五才とすると、祖父が行頼ならば二一才しか違わないことになるので、やはり「隠岐守行氏」の娘が基盛の母である。行氏は『吾妻鏡』には建長四年四月三日の格子番に「隠岐三郎左衞門尉行氏」が初見である。同上には「筑前次郎左衛門尉行頼」もみえるが、行頼の父行泰が二階堂行政の曾孫であるのに対して、行氏の父基行は行政の孫であり、行氏の方が一世代早い。
 ただし、基行は建久九年(一一九八)の生まれであり、行氏が基盛の祖父というのも無理がある。残された可能性は基行の娘が基盛の母であろう。これならば、基盛は祖父基行領を継承して、その名前にちなんで基の字を付けた。仁治元年に行氏が譲られた所領に長海本庄がないことも理解できる。当初は行頼の子であることから長海庄本庄を得たことを述べるためにこの文を書き始めたが、結果として長海本庄は二階堂隠岐守基行からその娘に譲られ、さらに娘の子である持明院基盛が継承した。これならすべてが説明でき「完璧」ではないだろうか。迷走したが納得である。
(追記)なお、文永四年に基盛が安堵された母の所領に長海本庄がないことの説明が不十分である。これを勘案すると、基盛が将軍宗尊親王に近侍する中で長海本庄を得たとすべきであろう。二階堂氏領であったとの見解は撤回するが、鎌倉初期に平家没官領として幕府の支配する所領となったことは問題はなかろう。
 また基盛の父家定は承久の乱の直後の一一月二一日の除目で正五位下に進んでいるが、少し前の閏一〇月一〇日の大臣大饗では「持明院右兵衛佐家定」として弦楽器箏の演奏を行っているように、九条家との関係を有す一方で楽曲の名手として知られていた。これが関東下向の背景であったと思われる。嘉禎四年の将軍頼経の大納言拝賀に従う殿上人の一人として「左中将家定朝臣」がみえる(玉蘂=九条道家の日記)。

長海本庄地頭持明院基盛1

 文永八年の島根郡長海本庄地頭は将軍側近の持明院基盛であるが、一方では丹波国大沢庄の預所兼地頭であった。大沢庄が関東御領であったためであり、長海本庄も同様であった可能性が強いと指摘した事がある。基盛は大沢庄については、文永三年にそれを譲られた母が、翌年に死亡したため、文永四年一二月六日関東下知状で「左近中将基成」が安堵をされた。持明院氏については承久の乱の直後の出雲国守が持明院家行であったことを明確にしたが、その後も将軍頼経の室を出すなどしていた。ただし、大沢庄は父家定ではなく、母から譲られたものであった。その母は「隠岐守行頼子」とあり、筧氏が論文で注記したように幕府政所執事二階堂行頼の子であった。ただし問題は、行頼が加賀守であったことのみ確認でき、一方、二階堂氏には代々「隠岐守」に補任された一族がいた。
 二階堂氏は行政が京下りの公家として頼朝に仕え、その死後は一三人の合議制の構成員にも選ばれていた。その子行光系が政所執事を継承したのに対して、行村系は代々検非違使となり、一方ではともに幕府評定衆を務めた。隠岐守となったのは行村の庶子元行とその子孫であったが、行頼は行光の曾孫にあたる。『吾妻鏡』では「筑前次郎左衛門尉」とみえるが、父行泰が寛元元年に筑前守に補任されている。行頼本人も文応元年には加賀守に補任され、その二年後の弘長二年(一二六二)には幕府引付衆となるとともに、父行泰に替わって政所執事に就任したが、弘長三年一二月一二日に三四才で死亡した。そのため、政所執事には父行泰が復帰し、次いで弟の行実が文永二年に継承するとともに筑前守となっていることが確認できる。
 これに対して弘長元年七月には元行(基行)の子行氏が隠岐守に補任されている。「隠岐守行頼子」との表記は「隠岐守」ないしは「行頼」が誤っていると思われるが、行頼と行氏の国守補任が同時期であったため、「加賀守行頼」を「隠岐守」と誤った可能性がある。そうした場合、三四才の父が死亡した女子は祖父行泰を中心とする一族で育てられ、成人後、関東祗候の公家であった持明院家定の室の一人となり、その間に生まれた基盛が母の所領を継承しつつ、将軍側近として活動したことになる。長海本庄地頭職も同様に二階堂氏領を母から継承したものであろう。

2018年2月18日 (日)

出雲・石見国知行国主の補足4

 話を戻すと、久永庄と出羽郷の堺相論に関する②の奏者前伯耆守光経は石見守でも石見国目代でもなく、三条実重の側近であり、文書名は御教書が正しい(関係ブログも修正)。これに対して、嘉元元年八月二八日前石見守奉某御教書は出雲国知行国主の袖判を持つ目代宛の出雲国宣を院宣とともに示して沙汰の実行を国造に命じている。石見国の②と同様の文書である。石見国では国宣せはなく国司庁宣が出されたがその文書は残っていない。「前石見守」は出雲守でないのは当然として、目代でもなく、これも公卿某の側近である。
 再び石見国に話を戻すと、文永一〇年三月に「前石見守平」は文永四年一〇月二三日の小除目にみえる「石見守平信名」であろう。その後に弘安二年(一二七九)年五月一日に「前石見守」とみえる仲親を挟んで源師重が文永一一年(一二七四)七月二〇日から建治三年(一二七七)一〇月二三日まで石見守であった。次いで某を一人挟んで弘安二年(一二七九)から弘安六年(一二八三)まで知行国主兼仲のもとで定成が石見守であった。以上をまとめると以下のようになる。
文永四年(一二六七)~ 平信名
?    平仲親(知行国主は鷹司兼平か基忠、仲親は建治二年九月には新陽明門院のも 
     とで下総守)
文永一一年(一二七四)~源師重(知行国主は父北畠師親ヵ)
建治三年(一二七七)一〇月頃~源(藤原ヵ)仲秀(弘安一〇年九月二一日に前石見守仲秀)
?~          藤原定成(知行国主平仲兼は文永一一年には甲斐守、弘安六年 
            には甲斐国知行国主、正応元年には備後国知行国主) 
弘安六年(一二八三)~ 藤原重氏(弘安八年に「石見前司重氏」)
弘安七年(一二八四)~ 藤原(園)基重(知行国主父基顕ヵ)
弘安一〇年(一二八七)~安倍某(知行国主三条実重)
正応四年(一二九一)~ 某(知行国主二条兼基)
永仁三(一二九五)頃~ 堀川光世ヵ(正安三年=一三〇一に石見前司)

2018年2月17日 (土)

出雲・石見国知行国主の補足3

 『花押かがみ』をみていたら、『勘仲記』弘安九年一二月一一日条に「石見前司定成」とある人物が、弘安五年七月から永仁元年一二月にかけて平仲兼奉書の奏者となっていることを確認した。弘安年間前半の石見国知行国主が平仲兼、ないしは仲兼が家司であった近衛・鷹司氏関係者である可能性が高くなった。建長年中に「定成」が甲斐守であったことが知られるが、文永一一年一二月二〇日には仲兼が甲斐守(兼民部太輔)に補任され、弘安元年二月八日に去任となっている。次いで弘安三年六月二五日に五位蔵人、七月一一日に兵部権大輔に転じ、弘安八年三月六日に右少弁となっている。公卿となるのは正応五年だが、正応元年(一二八八)一〇月二七日には備後国知行国主であったことが知られる。
 仲兼の子が「文永末~弘安初期の出雲国衙3」で述べた「仲高」で持明院統系の人物である。一方では正応三年一二月日関白前右大臣近衛家基家政所下文には「別当中宮亮平朝臣」として署判を加えている。『勘仲記』弘安六年七月二〇日条を確認すると、小除目の「石見守 藤重氏」の前に「甲斐守平康仲」がおり、そこには「仲兼国務」と注記があった。この時に仲兼は甲斐国知行国主であり、それは石見国知行国主からの遷任であったと思われる。結果として、六年七月二〇日まで平兼仲が石見国知行国主で、国守が定成であった。
 正応元年(一二八八)から四年にかけての「石見守」安倍朝臣の花押は、嘉元元年(一三〇三)八月二二日前石見守某奉書(某御教書)の花押と一致する。また前石見守は徳治二年(一三〇七)七月一二日後宇多上皇院宣(『鎌二三〇〇七』)の宛所としてみえる「石見前司」とも同一人物であろう。院宣では大和国山口庄の相伝について安堵したことを伝えている。この庄園では相論が発生した際に、摂関家氏長者宣で安堵がなされており、摂関家と深い関わりを持った庄園であり、「石見前司」は摂関家家司であったと思われる。徳治二年時点の藤氏長者は、正応四年に三条実重に代わって石見国知行国主となった二条兼基である。とりあえず、この線で嘉元元年の出雲国知行国主の花押の主を再検討したい。

出雲・石見国知行国主の補足2

 次いで嘉元元年八月二二日に知行国主某のもとで前石見守某がその意向を受けた御教書を出していた。一五年前の論文作成時に知行国主の花押は西園寺公衡のものとみたが、松江市史の時点で、西田氏から断定は出来ないが第一候補は中御門(吉田)経俊の子経継ではないかとの教示を受けた。公衡は嘉元三年には亀山上皇の子恒明親王の立太子を図って後宇多上皇から排除されているが、本来は持明院統系であるので、経継よりは可能性が高いのではないか。公衡の嫡子実衡を生んだのは出雲国知行国主であった中御門為方の姉妹である。何故か八月二二日出雲国司庁宣の袖に据えられた花押が「花押カードデータベース」の検索にヒットしないので、とりあえずは県立図書館の影写本で再確認して再検討しようと思っている。中御門経継ならば大覚寺統となり、この時点で院分国主が交替していたことになるが、どうであろうか。すべては花押次第だが、新たな周辺情報を確認できたので、以下に述べる。
 前石見守某は出雲守ではなく、花押カードデータベースはその文書を「出雲国目代施行状」としているがどうであろうか。すでにみた久永庄の場合は、①二月一六日に伏見天皇綸旨が国主三条実重宛に出され、次いで②二月二四日に三条大納言家御教書が「前伯耆守光経」を奏者として出された。鎌倉遺文には「早稲田大学所蔵文書」が掲載され、そこには実重の花押はないが、『花押かがみ』(鎌倉時代三)をみると、「賀茂別雷社文書」中の「石見国司庁宣」から袖判(藤原某とする)を掲載している。日本古文書ユニオンカタログでは「三条大納言(実重)家御教書」(鳥居大路文書)としている。早稲田大学図書館HPで画像を確認すると、確かに袖判はなく、写す際に欠落したのであろう。不思議なのは『花押かがみ』が実重とせず某としている点である。その外に実重の花押が残っておらず照合できないとのことであろうが、関連文書をみれば断定できる。摂関家の当主もそうだが、政所下文には本人の花押はなく、書状か知行国主としての国司庁宣がなければ花押は残らない。
 『花押かがみ』の実重の花押の二頁後にはそのもとで石見守であった「安倍朝臣」某の花押(正応元年と四年)が掲載されている。二九〇頁には評定衆で隠岐国守護であった佐々木時清の花押が掲載されているが、これは弟で隠岐国守護の代行であった高岡宗泰のものである。このあたりが不可思議なところであり、その精度に疑問をもたざるを得ない。永仁五年の宗泰の花押(鰐淵寺文書)も同一である。
(補足)花押と西園寺公衡並びに中御門経継のものと比較したが、嘉元元年のものとしては両者ともに似てはいるが同一とまでは言えないというのが現時点での結論である。どちらかを選べと言われれば西園寺公衡である。三条実重のものとは明確に異なり、可能性としては候補となるのは二条兼基であるが、彼の確実な花押は残されていない(花押かがみ南北朝一に一点あり。当該花押とは違う)。

出雲・石見国知行国主の補足1

 最初に、正安三年に出雲国知行国主が交替したことに関して不十分であった点を修正・補足する。前年までの国主日野俊光が持明院統であったことは問題ない。申美那氏は以下のように述べている。
皇室の分裂からはじまった鎌倉後期の公家社会のなかで、日野俊光は持明院統の近臣として重用され、日野流でははじめて大納言に昇る栄進を遂げた。俊光は伏見天皇の親政期に実務官僚としてその才能を発揮し、天皇の譲位後は院執権として活躍しながら後伏見・花園の両天皇の乳父を勤め、公私ともに持明院統を支えた(中世文人貴族の家と職―名家日野家を中心として―、東京大学大学院人文社会系研究科・文学部博士課程修了論文要約文)。
☆大学のHPによるが、2016年の「論文博士」に「近藤 成一 曽我物語の史的研究」とあるのは誤りではないか。2015年に「坂井 孝一 曽我物語の史的研究」とあるのが正しい。たまたま近藤氏の博士論文に基づく『鎌倉時代政治構造の研究』を公共図書館間の貸借を利用して山口県立図書館から借りている。
 最近よく参照する本郷和人氏のHPには俊光について以下のようにある。
父は日野資宣、母は賀茂神主能継の娘。文章博士から蔵人・弁官に任ず。四位の弁官であるときに伝奏になったというから、『中世朝廷訴訟制の研究』の本文では見落としてしまったが、親政を行なっていた伏見天皇の伝奏だったことになる。永仁三(1295)年に参議。翌々年権中納言。伏見院政下でも引き続き伝奏を務め、皇統が大覚寺統に移った正安三(1301)年に官を辞す。この後は伏見上皇の執権として働いたようで、まさに彼は上皇の股肱の臣であった。延慶元(1308)年、伏見院政の再開とともに再び伝奏に任じ、文保元(1317)年六月には権大納言に進んでいる。同年九月、伏見上皇が没すると問もなく辞任。この後は後伏見上皇に仕え、終生持明院統のために働いた。
 公卿補任で確認すると、史料の性質上、伝奏に復活した点は確認できないが、五六才であった正和四年にそれまでながらく「正二位前権中納言」であったのが治部卿となり、同年一〇月二八日に大宰権帥となり、一二月二五日に帥を止められている。この間に一一月には勅勘籠居もあったようだ。翌五年閏一〇月一九日には按察使となり、文保元年六月二一日に「正二位権大納言」に進み、一二月二二日に辞退している。「大納言に昇る栄進」とか「権大納言に進む」というのとは少し異なる印象を受けたが、持明院統の復権を受けて大納言に還任してまもなく辞退した四条隆親の場合とほぼ同じである。権中納言から中納言を経ずに権大納言に進んだので「栄進」なのかもしれないが、形づくりのようなものである。ただし、これも持明院統の復権がなければ「前権中納言」で終わったであろうから異例のことではあった。

2018年2月15日 (木)

文永末~弘安初の出雲国衙4

 文永一二年正月日杵築大社領家松殿兼嗣は「前国司沙汰之時は阿式社の寸法で移造すべしと院宣が出されたが、当国司は義孝所持の日記文書を召し出すべし」としたので文書が混乱して造営の遅々としてすでに五年が経ってしまった」と述べているが、これが文永一一年中の隆親から経俊への知行国主の交替であったと思われる。これに関連して、年未詳一二月一五日院宣があり、文永九年の後嵯峨上皇院宣ないしは亀山上皇院宣に比定されていたが、ともに成り立たず文永一一年の亀山上皇院宣であるとの説を提示した。これに対して松江市史では西田氏が再検討し、文永九年の後深草上皇院宣であるとの説を示した。
経俊は文永一一年九月一〇日に治部卿を兼ねており、同年一二月一五日の院宣ならば「治部卿」と署名するとの意見もあろうが、建治二年五月二三日亀山上皇院宣(醍醐寺文書)は、「院御気色所候也」の表現や、年を付けずに「中納言経俊」と署名するなど、一二月一五日院宣と共通する点が多い。年次比定は端裏書による。
 西田説は出雲国が後深草院の分国であったので院宣が出されたというものであるが、問題なのは奏者経俊は大覚寺統系の人物で後深草院宣に関わる可能性がないことである。文永九年の関係文書と当該文書の内容が違うので、それ以後のものであるということはすでに述べた通りである。
 年末の顕家の得替を受けて、一一年初めに出雲守となったのが知行国主隆親の甥の子隆泰であったが、院宣とともに「国造義孝と共に」との指令を受けた目代高階氏定は、院宣の内容と異なるとして激しく抵抗したと思われる。これ対して隆親と隆泰は亀山上皇院宣を出してもらうことで、目代を押さえ込もうとしたが、やはりうまくいかずに出雲国の支配を辞退したのだろう。杵築大社造営をめぐっては、目代と在国司長田政元(朝山昌綱の死と子時綱が年少であったため代行)、出雲大社神主出雲実高が国造義孝、これを支持する守護佐々木泰清並びに幕府と対立していた。
 これに対して文永一二年早々に知行国主となったのが院宣の奏者吉田経俊であり、有無をいわせずに目代に指令したのだろう。その方針転換を述べたのが文永一二年正月日の領家松殿兼嗣下文であった。
 当初は文永一一年の比定を、「治部卿」を根拠に文永一〇年に見直せばよいと思い、この文を書き始めたが、文永一〇年末にはなお亀山天皇であった。そのため院宣は一〇〇%ありえないことに気づき、「中納言」と署名し年を記さない経俊が奉じた亀山上皇院宣があることも確認し、自説を補強した。院分国の問題も、一旦は文永一二年初めに院分国ではなくなったが、中断を挟んで弘安四年に亀山の院分国となったとすべきであろう。多分一五年前にもよくよく考えて院宣を文永一一年に比定したのだろう。ただし、その時点では今ほど史料を実際に見る環境にはなかった。 

文永末~弘安初の出雲国衙3

 この確認をしたのは⑰がどうかと思ったからである。出雲国が持明院統の分国となったのに、なぜ後宇多院宣なのだろうかということだが、「右京権大夫」から判断したのだろう。花押カードデータベースでは平仲高に比定しているが、文書名はそのままである。仲高は正安二年正月一八日に「左衛門権佐」(勘仲記)、正安三年一一月二四日には「蔵人大夫・中宮大進」である。花押データベースには永仁四年八月日関白左大臣鷹司兼忠家政所下文の署判者中宮権大進平朝臣の花押も載せられており、これは同一人物のものと思われる。仲高は永仁二年三月一八日には「中宮権大進」であった。どうかと思っていたら「鎌倉遺文」のデータベースに正安四年八月二七日に「右京権大夫仲高」奉の文書(後伏見上皇院宣)があった。⑰は持明院統系の伏見か後伏見の院宣で間違いなかろう。二〇一五年刊の『出雲鰐淵寺文書』でも「伏見上皇院宣」としている。
 問題は知行国主四条隆親辞任後の出雲国が後深草院分国であり続けたかである。松江市史では西田氏が後深草院分国であったとの理解を示した。氏は文永一〇年末に隆親から経俊に知行国主が交代したとする。文永一〇年一二月三〇日に出雲守藤原顕家が得替していることが根拠であろう(公卿補任)。一方、『日本史総覧』には『勘仲記』建治二年七月二四日条に「前出雲守隆泰」がみえるとしている。これが誰でいつ出雲守であったかが問題である。四条隆親の甥隆行の子に隆泰(隆康)がおり、これと同一人物であろう。文永一一年九月一〇日に二六才で従三位に叙せられている。文永元年の出雲守は隆親の子隆良であり、文永三年四月日の出雲国司庁宣にみえる「大介藤原朝臣」も隆良であろう。隆泰は文永三年には中宮亮兼修理大夫で、建治二年七月の時点でも修理大夫であった。隆泰が文永三年の藤原朝臣である可能性も否定できないが、その場合、建治二年の時点であえて「前出雲守」と記す可能性は低いのではないか。次いで文永四年二月一日には藤原顕家が出雲守に補任されている。建仁年間に出雲守であった藤原顕俊の曾孫で(公卿補任)、文永一〇年末まで務めた。この後を継承したのが隆泰であったが、一年ほどで隆親が知行国主を辞して経俊に交替したのではないか。

文永末~弘安初の出雲国衙2

 時継は後深草系の公卿であるが、伏見が皇太子となってもその立場に変更はなかった。何が言いたいかと言えば、吉田経俊と平時継が知行国主となった時期には院分国ではなかったという点である。時継はあくまでもその経験を買われての知行国主起用であったが、何もできないまま任期四年(一二七七~一二八一)を終え、その後出雲国が亀山院の分国となったのではないか。院分国となると国衙領の税は政府ではなく院のものとなるというが、より具体的にはそれぞれの公領が院の関係者に配分される。これに対して知行国主の交替はそれほど影響しない。弘安年間に亀山院の分国となったことで、後深草院は文永年間に祇園社に寄進した長江郷の扱いが心配となり、別の国の代替地を寄進した。しかし、長江郷の祇園社への寄進は亀山側も継承した。その後、正安三年には分国主は大覚寺統から持明院統に移動し、知行国主も日野俊光から藤原為方に交替した。漆治郷では交替の際に問題も起きた。文永年間に出雲国が後深草院の分国となったのは亀山天皇のもとで後深草が不利な立場になった時であった。正安三年も天皇が持明院統の後伏見天皇から大覚寺統の後二条天皇に交替し、伏見院政から後宇多院政に替わった時期であった。不利な状況となった持明院統の分国になった点では文永年間と同じである。
 正安三年正月二一日に後二条天皇が即位し、父である後宇多が院政を開始したが、この時点では後深草・亀山・後宇多・伏見・後伏見の天皇経験者五名が健在であった。鎌倉遺文でみると、正安三年①正月二四日伏見上皇院宣、②三月二日伏見上皇院宣、③三月二日亀山上皇書状?(院宣)、④三月一三日伏見上皇院宣、⑤四月二七日後宇多上皇書状?(院宣)、⑥六月三日伏見上皇院宣、⑦六月一〇日亀山[後宇多]上皇院宣、⑧六月二一日伏見上皇院宣、⑨七月九日伏見[後宇多]上皇院宣、⑩七月二二日伏見[後伏見]上皇院宣、⑪七月二九日伏見上皇院宣、⑫七月二九日後宇多上皇院宣、⑬八月一二日後宇多上皇院宣、⑭八月一九日伏見[後宇多]上皇院宣、⑮八月二九日伏見上皇院宣[なし]、⑯九月一三日後宇多上皇院宣、⑰一〇月四日後宇多[伏見]上皇院宣、⑱一〇月五日後宇多[後深草]上皇院宣、⑲一一月二八日伏見上皇院宣、⑳一二月二一日後深草上皇院宣等がみえる。院宣の発給者の特定は困難で将来見直されそうなものもありそうであり([]内は史料編纂所日本古文書ユニオンカタログによる、遺文未掲載もあり)、あくまでも目安だが、院政を開始した後宇多院とならんで持明院統の伏見院のものも多い。また後醍醐天皇綸旨と同様に年号を記したもの、付年号のものが多数派である。

文永末~弘安初の出雲国衙1

 基本史料からわかる事実を確認すると、建治三年に比定できる五月七日沙弥(佐々木泰清)書状で、文永七年正月に焼失した杵築大社本殿の再建は、本院(後深草)分国のもとで知行国主であった六八才の四条隆親によって仮殿造営が開始されたが、従来のように造営のために重任することなく辞退したので、新たに文永一二年頃五八才の吉田治部卿経俊が知行国主を引き継いだ。ところが建治二年一〇月一八日に経俊が六三才で死亡したため、過去に父貞親とともに杵築大社造営を行った経験のある前権中納言で五四才の平時継が知行国主に起用され、出雲国が亀山院の分国となる弘安四年途中まで務めた。文永年間に出雲国が後深草の院分国であり、弘安年中に亀山の院分国となったことは祇園社の記録からもわかる。
 問題は後深草から亀山への分国主の変化が連続して行われたのか、あるいはその間に院分国ではない時期があったのかということである。具体的には知行国主経俊と時継の時代も後深草の分国であったか否かである。松江市史では西田氏が後深草の分国であったとの説を示された。時継は持明院統系であるが、経俊は大覚寺統系の公卿であることが問題となる。後嵯峨院-亀山天皇の時代は後深草系の人物にとっては冬の時代であった。文永九年二月一七日に後嵯峨院が死亡して、短期間の亀山天皇親政期をへて、文永一一年一月二六日から亀山院-後宇多天皇の体制が成立したが、翌建治元年には後深草の幕府への働きかけと幕府の意向があいまって、後深草の子伏見が後宇多天皇の皇太子となった。これで後深草系の人々は長かった冬の時代から雪解けの時代へと移行した。
 文永元年以降後深草の院分国のもとで知行国主となった四条隆親は、翌年に兵部卿となったが依然として「前大納言正二位」のままであった。それが建治二年一二月二〇日に大納言に還任した。翌年正月に後宇多が元服するためであった。そして二月二日に辞退して前大納言に戻って弘安二年九月六日に七七才で死亡した。これに対して時継には変化がなかったが、弘安一〇年に伏見天皇が即位してから三年目の正応二年一〇月八日に権大納言に昇進し、翌年正月一三日に辞退した。一五日には本座を許されたが、二月一一日には出家し、永仁二年七月一〇日に七三才で死亡した。

 

侍従三位=家時?

 漆治郷についてで述べたこの人物について検討する。デジタル版 日本人名大辞典+Plusには以下のように記されている。その情報は公卿補任(嘉禎元年外)に基づくものである。
1194-1282 鎌倉時代の公卿(くぎょう)。
建久5年生まれ。藤原保家(やすいえ)の次男。若狭守(わかさのかみ),右馬頭(うまのかみ)などをへて,嘉禎(かてい)元年従三位となり,侍従,備中権(びっちゅうのごんの)守などをつとめ,正元(しょうげん)元年従二位。弘安(こうあん)5年7月20日死去。89歳。
 父は持明院保家、母は高階経仲の娘である。承久の乱後の出雲国知行国主持明院家行の従兄弟になる。正元二年に正三位から従二位に進んだとの記載があるにもかかわらず、翌年以降も非参議「正三位」(散位)の場所に記されている。嘉禎三年一〇月二七日に侍従に補任され、暦仁元年には正三位に進んだと記してある。それ以降はひたすら「家時 侍従」と記される。仁治二年二月一日には備中権守に補任されるが、翌三年一一月四日に止められている。ところが翌四年にも同様の記載があり、公卿補任の編者もその点を指摘している。翌年からは再び「侍従」のみ。年齢も記されていない。宝治元年に初めて「五十二」と年齢を記し、一歳ずつ増えていく。さらに問題の正元元年には閏一〇月一三日に従二位に除せられたと記されており、公卿補任の編者も翌年から死亡する弘安五年まで「正三位」とあるのは疑うべきと記す。建治三年には「侍従」が欠落しているが、翌年は復活。そして弘安五年に七月二〇日に「侍従」のまま八九才で死亡したと記される。
 弘安四年七月一三日の時点で「侍従 三位」であるのは家時以外に藤原能清がいる。能清は建治三年九月一三日に五二才で侍従に補任され、弘安八年に従二位に、正応四年には正二位に進んでいる。そして永仁元年一二月一三日にはようやくというべきか「参議」に補任されているが、翌二年三月二七日に辞退し、「前参議」となったところで同三年九月一日に七〇才で死亡している。
 弘安四年の「侍従三位」を持明院家時とする説はかなり怪しいことが確認できた。八八才で翌年に死亡する人物が出雲国知行国主(これは松江市史での西田氏の解釈)や漆治郷領家(これはブロクの説)たりうるであろうか。根拠のある藤原能清にすべきである。また、三位という地位から出雲守ではありえない。知行国主なら可能だが、能清が出雲国以外の国守・知行国主となった史料はない。

2018年2月14日 (水)

鎌倉中期の出雲国司5

 文永元年には従二位参議である四二才の時継は前年までの「近江権守」からはずれ、逆に前年には散位であった六二才の前大納言四条隆親が九月二〇日には兵部卿に補任されている。そして同年一〇月八日には平朝臣某が出雲守であったが、一五日には隆親の子隆良が出雲守に補任されている。時継は文永四年一一月には加賀国知行国主に現任しているが、文永元年一〇月一五日には同年正月の除目で補任されたばかりの藤原範世が加賀守を得替しており、この時点で時継が出雲国知行国主から加賀国へ遷任した可能性がある。範世は他国の国守になったことは確認できないが、その後も左中将に進み、殿上人として活動している。
  出雲国知行国主四条隆親の目代としては、左衛門尉高階氏定がいる。出自を示す史料はないが、建長八年四月五日賀茂社祭に関する功による除目が行われているが、そこに「左衛門尉 高階氏定」がみえている。その起用は知行国司が有親から時継に代わった時点ではないか。建長元年一一月二二日の五節に際して出雲国知行国主権右中弁時継が関わっており、これ以前に知行国主が交替していた。建長元年八月日三年八月日出雲大社遷宮神宝注進状を作成した細工所別当左近将監源宗房は時継の目代源右衛門入道宝蓮の子であり、この報告の完了をもって知行国主が代替わりしたのではないか。
 建長三年八月日出雲国司庁宣にみえる「大介高階朝臣」が出雲国司であり、その際に同族の高階氏定が目代に起用されたのだろう。そしてそれは文永元年に知行国主が後嵯峨院の近臣四条隆親に交替しても変わらなかった。出雲国はこれ以降、後深草院の分国となったとされるが、それ以前から実質的に治天の君の分国ではなかったか。承久の乱の前から後鳥羽院の近臣源有雅が長期間知行国主であった。乱後も守貞親王とその室の甥である持明院家行が知行国主となり、その死亡により一時的に二条定輔がこれに替わった。定輔もまた間もなく死亡したため、出雲大社造営に関わった藤原光隆の孫で、土御門天皇の准母であった範子内親王や守貞親王と関わりに深かった平有親が知行国主に起用された。杵築大社造営が延びたことも留任の原因であろうが、それ以上に守貞親王と土御門院の子である後嵯峨院の支持があったため、備中国の例を紹介したように、四年任期切れが近づくと様々な人々から知行国主補任の希望が出される中、出雲国では杵築大社遷宮終了後も有親の子時継に知行国主が継承された。承久の乱を挟んで、後鳥羽院-守貞親王-後堀河天皇-四条天皇-後嵯峨天皇という治天の君とその関係者が出雲国知行国主の決定権を握り、その後、後嵯峨の子である後深草と亀山が即位する中、出雲国が退位して上皇となった後深草の院分国となったのであろう。

鎌倉中期の出雲国司4

 この次の国守交替で知行国主が有親から時継に交替したと思われる。時継は暦仁元年閏二月二七日に父貞親が参議を辞職することで五位蔵人に補任された。貞親は仁治元年六月一四日には出家している。建長元年の出雲守として「兼重」がみえる。関係史料はほとんど確認できていないが、建暦二年一一月一一日の除目で従五位下となった「高階兼重」であろう(藤原兼重とした点を修正)。建長三年(一二五一)には高階朝臣某が出雲守であるが、同一人物で、国司庁宣には知行国主時継が袖判を加えている。次いで建長七年(一二五五)には国守が卜部宿祢に交代、康元二年(一二五七)には三善朝臣、文永元年(一二六四)一〇月八日には平朝臣がみえるが、庁宣の袖判には変更がない。ただし同月一五日には知行国主四条隆親のもとで四条隆良が出雲守に。文永四年(一二六七)二月には藤原顕家に交代している。
 杵築大社造営が長期化する中、知行国主平貞親-時継父子は留任し、国守は四年毎に交替しているが、国衙の実務を掌握していたのは目代である。嘉禄二年四月に目代左衛門尉家忠が竹矢郷内一町三段の田を平浜八幡宮に寄進しているが、これは守護兼国守の義清の目代であろう。貞永元年九月日出雲国留守所下文の最後に署判している「目代右衛門尉源」が知行国主平貞親が起用した目代である。建長元年六月日杵築大社遷宮日時・神事勤行儀式次第注進状の末尾(ただし在庁官人より一段上)にも「目代沙弥」が署判を加えている。本文中には「源右衛門入道宝蓮」と記されており、貞永元年の右衛門尉源と同一人物であろう。貞親が知行国主である間は目代は同一人物が務めていた。
 建長元年に杵築大社遷宮とその後処理が終了したため、知行国主は貞親から子の時継に交替した。時継は建長四年一二月四日に宮内卿・治部卿を経て蔵人頭に進み、建長七年二月二日に正四位下参議に補任され、公卿となった。後嵯峨天皇の皇子で寛元四年一月二九日に即位した後深草天皇の蔵人頭であった。正嘉二年には正三位に進んだが、翌正元元年一一月二六日には後深草の弟亀山天皇が即位した。

 

鎌倉中期の出雲国司3

 仮殿遷宮終了後の嘉禄三年(一二二八)一〇月四日には、一二世紀後半に出雲国知行国主であった藤原光隆の娘を母とする平有親が左中弁に補任されるとともに知行国主となり、同族と思われる平有時が出雲守に補任された。建久九年に高倉天皇の第二皇女範子内親王(一一七七~一二一〇)が土御門天皇の即位に伴い准母・皇后となった際に有親の父親国が皇后宮大進として仕えている。内親王は『平家物語』で名高い高倉天皇の寵姫小督を母として生まれたため平清盛に迫害され、藤原光隆邸で養育されていた。親国と光隆の娘との間に生まれたのが有親であった。そして守貞親王は内親王の二才下の異母弟であった。親国-有親は順徳天皇の即位以来不利な立場に置かれた範子内親王や守貞親王に仕えていたと思われる。
 寛喜元年(一二二九)一〇月九日の時点でも有親の見任が確認でき、同年(一二二九)一一月から正殿造営が開始された。有親の一回目の任期が終了した寛喜三年九月八日に出雲守時通が公卿・勅使禄物について、杵築大社造営中である上に、作物の損亡が著しく、出雲国は負担できない旨、報告している。出雲守が平有時から藤原時通に交代しているが、大社造営中ということで知行国主は重任したのではないか。時通の父家通は難波頼輔の兄である忠基の子であるが、大納言藤原重通の養子となった。家通と藤原俊成の娘との間に生まれたのが時通である。本殿造営が軌道に乗るのは嘉禎二年(一二三六)以降で、国守交替の年である文暦二年(一二三五)九月に国造義孝が神主に補任されている。
 仁治元年(一二四〇)四月五日の除目で高階邦経が出雲守に補任された。邦経は知行国主平有親の子時継の妻(高階経雅娘)の兄弟であり、且つ大社本殿造営が続いているため、知行国主には変更がないと思われる。仁治元年一一月一二日には「出雲 蔵人佐時継、国務父入道沙汰也」とみえる。同年一二月二六日には杵築社功により出雲国衙在国司勝部昌綱が右衛門尉に補任されている。
 寛元二年(一二四四)正月二三日の除目で出雲守に補任された源範綱は貞永二年正月二八日の除目で従五位下、嘉禎元年正月二三日には知行国主石清水八幡宮のもとで因幡守に補任された経験を持つ。出雲守補任後の寛元三年正月一三日に右兵衞尉に補任され、寛元四年四月二三日にも出雲守の見任が確認できる。次いで杵築社遷宮終了後の宝治二年(一二四八)一二月二七日には藤原長時が出雲守に補任された。遷宮は終了したが、後処理が残っており、国守は任期満了で交替したが、知行国主は留任であろう。

 

鎌倉中期の出雲国司2

 家行の死により藤原親信の子で琵琶の名手として知られた二条定輔が知行国主となった。国守は義清のままではないか。定輔も嘉禄二年の時点ですでに六四才であり、貞応二年二月には出家している。琵琶の才のみで政治的手腕はなかったとされており、当座の措置としての起用であろう。
 従兄弟である坊門信清は後鳥羽院の叔父で(建保四年死亡)、その子忠信が上皇方の大将軍として出陣したため、承久の乱の影響は避けがたく、関係者として一旦は恐懼に書せられた。同母弟親兼の子信成は坊門忠信の養子となり、建保六年一二月九日には参議、承久三年一月五日には正三位に進んだが、乱後の一二月に参議を停止された。隠岐に配流された後鳥羽院は暦仁二年(一二三九)二月九日に、出雲国島根郡加賀庄と持田庄等の所領を信成の子親成に譲ることを記した置文を作成している。親成の母は吉田経房の子定経の娘であった。
 定経は建久八年(一一九七)には参議、正治元年(一一九九)には従三位に進んだが、同年に四二才で突如出家した。これにより経房は定経を義絶し、定経の子で一九才の資経を後継者とした。父信成と母方の祖父定経が失脚・出家したことは親成にとって大変不利な状況を生んだ。信成は建久八年の生まれであり、その室となった定経の娘は出家前後の生まれであろう。後ろ盾のない親成は隠岐に配流された後鳥羽院に一八年間にわたって奉公したが終生無官であった。これに対して弟信氏はその母は不明だが、兄とは異なり任官し従四位下侍従に進んだ。父信成も弟信氏を寵愛していたため、後鳥羽は親成に離宮のあった摂津国水無瀬で自らの菩提を弔ってもらうことを期待しているが、自らの意志に反して所領が信成に譲られてしまうことを危惧している。親成の子良親は従四位下侍従に進み、孫具良は非参議公卿(文保二年に治部卿・正三位)となって水無瀬家が続いていくが、公卿補任(延慶三年)では具良(元弘元年に六三才で死亡)を信氏の孫とする。
 定輔も建久二年に従三位、正治二年に参議、建仁二年権中納言、元久二年中納言、承元三年四月一〇日には四七才で権大納言に進んだが、土御門天皇が退位し、順徳天皇が即位した直後の承元五年正月一八日に辞任した。建保五年に五五才で大宰権帥となった理由は不明である、前任で四六才の四条隆衡が五ヶ月で辞任したことが関係していよう。承久の乱後の七月二〇日に恐懼、閏一〇月九日には出仕も免ぜられた。一二月一〇日には許されたが大宰権帥は辞任した。後任は補任されず、代わりに大宰大弐に五九才の藤原親輔が補任された。翌年には天皇の勅により本座への復帰をみとめられ、貞応二年二月一七日には出家したが、家行死亡後の嘉禄二年には出雲国知行国主となった。翌嘉禄三年七月九日に六五才で死亡した。一方、嘉禄二年三月から仮殿造営が本格化。七月には出雲政孝が神主に補任され、翌年七月には仮殿遷宮が行われた。

 

鎌倉中期の出雲国司1

 承久の乱後の出雲国知行国主としては、嘉禄二年(一二二六)二月一五日に死亡した前権中納言持明院家行が知られる。持明院基宗と上西門院帥局の子で、安元元年(一一七五)の生まれで、文治二年(一一八六)一二月一四日に上西門院の分国である備後国の国守に補任された。一二才であり、実質的には三二才の父基宗が国務を行ったと思われる。その後、淡路守、再度の備後守、紀伊守をへて建保六年(一二一八)一二月一四日に四四才で従三位・公卿となった。承久の乱への関わりは弱く、承久三年一二月一二日に参議に補せられている。この年に出雲国知行国主となったのではないか。そして一一月一六日に正五位下に補任された子家定が出雲守となった可能性がある。
 貞応二年五月一四日に守貞親王(後高倉院)が死亡すると、公卿の中で唯一左衛門督別当を「法皇御事」により一時的に辞しており、親王との関係がうかがわれる。守貞親王が持明院陳子(北白川院)との間に儲けたのが後堀河天皇であるが、陳子は家行の父基家の異母兄弟であった。
 嘉禄元年七月六日に家行が権中納言に補任された。そして同年一一月一九日には左衛門督別当を辞して二男基長を右少将とし、一二月二二日に権大納言を辞して、子家定が左中将に補任されている。後に家行の娘が将軍九条頼経の室となり、仁治三年七月四日に男子(頼嗣の異母弟)を生んでいる。子の家定は貞永二年(一二三三)正月二四日には分国主後堀河院のもとで播磨守に補任され、殿上人として京都で活動し、建長三年(一二五一)に死亡している。
 頼経の正室は二代将軍頼家の娘竹御所であったが、天福二年に三三才で死亡した。これに対して、延応元年(一二三九)には藤原親能の娘大宮殿が五代将軍となる頼嗣を生んでいる。持明院家行の娘の母は親能の姉妹であった。文応二年三月二五日に宗尊親王近習としてみえる「持明院少将基盛」は家行の孫となるが、頼経室となった叔母との縁で幕府に仕えるようになった可能性が高い。
 嘉禄元年正月二二日には出雲国守護佐々木義清が出雲守に補任された。前任者は家行の子家定(月日は不明だが、この年に左近衛少将に補任される)であった可能性がある。貞応二年七月二八日関東下知状が出され、津田郷による朝酌郷の筌を押領を停止している。一一月二日にも関東下知状が出され、神門郡薗山新庄への守護使の入部を停止している。こうした中、義清に出雲守を兼務させて国衙の支配体制の再建を図ったのではないか。

2018年2月13日 (火)

将軍頼嗣の母

 鎌倉幕府第五代将軍頼嗣は四代将軍九条頼経と藤原親能の娘との間に生まれたとされるが、頼経が建保六年(一二一八)の生まれであるのに対して、妻の父とされる親能は承元元年(一二〇七)一一月二二日に三九才で死亡している。その娘なら遅くとも承元二年までには生まれていたこととなり、頼経との間には一〇才以上の年齢差がある。頼嗣が生まれたのは延応元年(一二三九)一一月二一日であり、父頼経が二二才で母親能女子は三二歳以上となる。頼経の正室であった竹御所は一六才年長であったが、これは彼女が二代将軍頼家の娘であり、源氏の血を引く人であったためである。親能女子は不可能ではないが、疑問があることのみ述べておく。
 というのは頼経室としては承久の乱後の承久3年(一二二一)に出雲国知行国主となった持明院家行の孫娘も頼経の室となり、頼嗣の弟となる男子を産んでいる。また家行の孫基盛は文応二年には将軍宗尊親王の近習であることが確認できる。家行は安元元年(一一七五)の生まれで、嘉禄二年(一二二六)に五二才で死亡している。頼経室が頼経と同年齢とすると四四才の時の子となり、こちらは問題ない。
 親能は権中納言にまで進んだが、父定能(極官は権大納言)に先だって死亡した。このためか、少なくとも三人の男子がいたことが知られるが、公卿に進んだものはいない。これに対して、家行の子にも公卿に進んだものはいないが、孫基盛が幕府に仕え、関東御領出雲国長海本庄の地頭となっている。家行娘の母については不明だが、藤原定能女=親能の妹である。とりあえず、竹御前以外の頼経の室二人は従姉妹ということになる親能の娘は。『吾妻鏡』では「二棟御方」(将軍家御寵、大宮殿)とあり、家行の娘は『北条九代記』では「御台所」と呼ばれている。頼嗣は父頼経の引退後、寛元二年(一二四四)に六才で将軍となり、同三年には北条経時の妹檜皮姫を正室としたが、同四年には宮騒動により父頼経は京都へ強制送還された。自らも建長四年(一二五二)に一四才で将軍を解任され、京都へ追放された。また父頼経が三九才で死亡した翌月である康元元年九月に一八才で死亡した。

2018年2月12日 (月)

最近の状況から

 昨年元旦に年度毎のブログアップ本数を掲載した。その後の状況はというと、三月三一日までに51本、退職後の四月から年末までに196本で、2017年の合計は247本である。過去最多であった2011年の245本を抜いたことになる。開設以来の累計は1634本、ブログのカウンターは23万を越えたところである。
 時間は以前よりあるが、当然のことながらネタは減っていく。今年、能義郡宇賀庄地頭長井頼重について考える中、長井氏一門、さらにはそれを含む大江広元の子孫、さらには毛利氏と内管領として知られる長崎氏など、県外の話題が増えたのは、何より分析が必要だったからである。楠木正成に関する最新の研究も確認し、布志名判官については若干の前進がみられたが、伯耆国の名和氏については分析可能なデータを含む史料がないため、原稿を作成するに至らなかった。そもそも「名和」「長田」とか「源」と表記している史料が少なく、多くは「伯耆守長年」と記しているのも不可思議である。
 出雲国守護塩冶高貞についてもその生年や母についての史料は全く残っていない。高貞が幕府に討伐された原因についても、不明な点が多すぎる。中公新書『観応の擾乱』の著者亀田氏の見解もあまりにも根拠に乏しいものである。これが現在の日本中世史の研究者のレベルを示しているのだろう。亀田氏も最近まではポストに恵まれなかったようだが、有能でありながら、得ていない人は沢山いる。かといって得ている人は玉石混交で、どのような採用選考がなされたのかが理解できないケースも多い。優れた研究に触発されて、さらに良い研究が出てくることを期待したいが、「悪貨は良貨を駆逐する」とのことわざがあるように、どうなるかは不明である。テレビにも登場する本郷和人氏はより高いレベルで、中世史研究にかなりの危機感をいだいているようではある。
 松江でも降雪があるが、他地域と比較すれば少ない。これも運でしかないが、世界の指導者から現在の知的レベルの低い首脳たちが一掃され、十全な環境対策が取られれば、異常気象も緩和されるだろう。最近は異常気象が普通になりつつあり、本来天候が変わりやすいのは山の上のことであったが、現在では平地でも安定せず、局地的な豪雨・豪雪が少なからずある。
 水俣病の問題を社会に知らしめた石牟礼道子さんが亡くなられた。その活動を九州で勤務していたた新聞記者や出版社の関係者等多くの人が支えていた。昨年一月二〇日に七九才で亡くなられた三原浩良氏も、毎日新聞記者として石牟礼さんと交流し、その後も、友人の死をうけて継承した葦書房、自ら設立した弦書房で関係する本を出版されていた。「昭和は遠くなりにけり」というがそれ以上に「賢人は遠くになりにけり」である。現在の社会状況では賢人は生まれにくくなっているが、今こそ必要である。本物なら「悪人」でも良い。現在は偽者の悪人が政財界に多く、ニセの「知識人」がはびこっている。

備中国をめぐる争奪戦

 承久の乱後、備前国とともに鎌倉幕府の兵粮料所とされた備中国は、寛喜三年(一二三一)八月二十三日に陸奥国と交換する形で(後堀河天皇)中宮=九条道家娘(母は西園寺公経娘、二条良実、将軍頼経は兄弟)の分国となった。一方、陸奥国は将軍頼経の知行国=関東御分国となり、以後、北条氏一門が国守を独占した。唯一の例外は弘安五年(一二八二)七月十四日に陸奥守となった安達泰盛であった。
 備中国は天福元年(一二三一)には近衛兼経の知行国主現任が確認できる。寛元二年(一二四四)四月五日以前は式乾門院(後高倉院娘、後堀河子四条の准母)分国で西園寺公経が「国務」であった。公経が国守というのはありえず、院分国下の知行国主であろう。国守は不明である。その任期が終了したので備中国の争奪戦が始まったのだろう。『平戸記』寛元二年四月五日条によると、備中(元式乾門院御分、入道相国=西園寺公経国務)は殿下(二条良実)が賜った(国守藤原能行は関係史料が少なくどのような人物かは不明。日本史総覧で国守を行実とするのは?)とある。ただし、久我前宰相源通光が希望していたようで、兄弟の定通を通じて後嵯峨院へ働きかけたが、実現せず、法性寺入道九条道家の知行国であった丹波国を通光(国守は子の通持)に与えて宥めようとしたが、通光は納得せず、四月五日の補任から三ヶ月余りで辞退し、平親継が丹波守に補任されている(知行国主は不明)。
 備中国を希望していた人は他にもおり、西園寺公経・実氏父子は後嵯峨天皇の中宮(実氏娘姞子)の分国とすることを望んだとする。この場合も院分国のもとで西園寺氏が知行国主となり、国守を補任する形であったのだろう。一人の知行国主が長期間に亘って続いている場合は、一宮造営などが継続していたり、治天の君(この時点では後嵯峨天皇)が分国主であった場合であろうが、これは例外的なものである。

2018年2月 9日 (金)

図書館統計から2

 少ない予算の割に頑張っているとの評価もできるが、島根県の現在の県民へのサービスの提供は鳥取県との間に大変大きな格差がある。教育も同様で、将来の人材の格差につながることは必定である。鳥取県は片山知事(1999~2006)、現職の平井知事と特色ある政策を打ち出しており、以前、職員の給与をカットした際も、その額を教育・文化に充てていた。島根県は教育・文化も同様にカットし続けたのが現在の姿である。県史編纂についても島根県は1960年代前半(明治100年前後)に終え、鳥取県は1970年代後半に終えたが、鳥取は文書館があり新県史編纂中だが、島根県はお寒い状況である。何より人材が決定的に不足している。採用方法をもっとオープンにして全国から人材を集めないと十分な効果は得られない。
 県民も予算の図書購入費の増額を議会に要求し、議員も勉強した上で県に要求していただきたいところだ。前回の選挙で「教育費負担の軽減」を説くポスターを掲示していた政党があり、現在でも貼られているが、そのためにはどこを削るかを明示しないと本気の政策にはならないということを肝に銘じてもらいたい。選挙目的のくちあたりのいい事のみを説くのは、無責任政党であり不正である。
 ここのところ、株価も下落している。今後のことはまったく予想不能で、儲けようと思っている人がどう行動するかで動いており、経済の実態を反映していない。外国人投資家が日本に関心を失うと、株価は急落するが、それがいつ起こるかどうかはわからない。本日南海トラフが起きる確率が修正されたが、それと同じように、このままその場しのぎの経済運営が続けば暴落が起きるのは確実だが、関係するデータがなければ確率は出せない。言えるのは日本経済の核となる部分は全く成長していないことである。最初に株式を売り抜ける情報を持っている人は良いが、その他大勢の人は痛い目にあってしまう。ビットコインの場合と同様である。ちなみに自分は株や賭にはまったく関心がなく、パチンコ・麻雀すらやったことはない。パソコンゲームの上では過去に一度か二度パチンコをしたことはある。たまに競馬中継をみるが、事前に予想されていたことや情報がどれだけ根拠あるものであったかを確認するために視聴している。当然馬券も買ったことはない。競馬の予想は衛星から観測できる天候レベルではなく、地面の下でわからないことだらけの地震・噴火予報レベルである。

図書館統計から1

 ブログの原稿作成では公共図書館の資料も利用している。そこで各県の図書館案内を見て状況の比較をしていたが、山口県のように過去の状況を数年後にまとめて公開している県もあり、単純に比較できない面もある。そうしたところ、日本の図書館の2015年の統計(以下では2015版)がネット上で公開されていたので、それを使って状況を比較してみる。小学生の頃の記憶だが、それまでの松江市立図書館が島根県立図書館に発展的に解消して一九六八年に開館され、その時点では全国でも有数の蔵書であったとの記憶がある。その後、松江市立図書館が開設されたが、原発交付金(所在した鹿島町のみならず、松江市もその余得に預かった)の使用目的で批判されないため、プラバ・ホール(音楽中心)と併設して図書館を設けた。開館時の蔵書購入は外部の業者に丸投げせざるを得なかった。現在の予算については、ネットで資料を確認できず。
 現在はというと、自分が利用する歴史の専門書は、予算の関係かあまり本県の図書館にはない。そこで公共図書館間の相互貸出制度を利用して、昨年11月以来、下関市立図書館、鳥取県立図書館、岡山県立図書館、山口県立図書館、あと島根大学図書館の蔵書を利用している。
 広島市立については、121名の職員(内司書資格保有者99、常勤・非常勤の区別は記載なし)、約購入費1億1500万円(2016年度版要覧)とあり、広島県立の30人(非常勤9)、図書購入費4600万(2017要覧)よりはるかに多い。公民館と並行して分館が展開されている。ただし、2015版をみると広島県立は総数41、専任20(司書13)とあり、図書館購入費はなぜか空欄となっている。来館者21万(端数は切り捨て)人、登録者86559人とある。岡山県は職員94.9、専任40(23)で来館者104万人、登録者22万6616人とある。人口は広島県が287万、岡山県が194万人である。岡山市立はデーターがない。同じ県立でもかなりの差がある一つの例としてあげた。
 島根県は人口71万、職員34、専任17(14)とある。図書館費1億1921万4千円である。図書購入費は3833万5千円、登録者数41059人,来館者数26万人である。鳥取県は人口58万、職員45.5、専任24(16)とある。図書館費2億6467万9千円で、図書購入費は要覧によれば1億205万6千円、登録者数11万4361人、来館者数30万人。両県の要覧で更に新しいものが確認できるが、購入費は島根2640万4千円(要覧2017)、鳥取1億513万6千円(2016)とさらに差が広がっている。島根が年々減少し、鳥取は微増しているからである。
補足 2001年の図書館資料費の額が公開されていたので紹介する(これ以前はなし)。【】内は2016年のもの。島根県4285万【3404万】、鳥取県1億398万【1億205万】、岡山県1億2326万【1億2462万】、広島5639万【4854万】、山口5100万【5149万】。島根県と広島県の減少が著しい。島根の最新は2600万円台にまで落ち込んでいる。

鎌倉中期の石見国司6

 これに対して『勘仲記』弘安九年(一二八六)閏一二月一一日条に「石見前司定成」がみえているが、世尊寺定成である。重氏が補任された弘安六年以前の国守であろう。『実躬卿記』弘安一一年(一二八八)四月一〇日条に藤原公貫がその室とともに春日社に参詣しているが、付き従った諸大夫二人の中に「石見前司仲秀」がみえる。翌一一日条にも諸大夫奉幣として、美作前司藤原為重とともに仲秀がみえ、前年の九月二一日条にも「諸大夫前石見守仲秀」とみえている。公貫は三条実躬の父である。為重は弘安六年四月五日に美作守に補任されている。仲秀は園基重の後任であろうか。『実躬卿記』正応五年(一二九二)二月二七日には除目で佐渡守に源仲秀が補任されたことが記されている。知行国主は一部を除き明らかではないが、短期間で交代するのは知行国主の上に分国主として院ないしはその関係者がいたからであろうか。
 正応元年(一二八八)一〇月二七日の「任大臣大饗」(鷹司兼忠が内大臣)に石見国知行国主三条大納言実重がみえる(勘仲記)。次いで一一月日(前)関白前太政大臣鷹司兼平家政所下文の署判者に「石見守安倍朝臣」がみえる。安倍某は摂関家の家司を務める一方で三条実重のもとで石見守となっていたが、実務は目代国重が行っていた。当時は専門家しており、知行国主が交代しても同じ目代が起用されることもあり、一方では預所などの庄官を務めるものも珍しくなかった。『公衡卿記』正応二年二月一三日条に「石見国幣料無沙汰」として「国司三条大納言」がみえ、引き続き実重が知行国主であった。石見守安倍朝臣と同じ人物と思われるのが正応四年七月日(五月二七日より関白)と九月日(写)、正応六年六月日(写)の関白左大臣九条忠教家政所下文の署判者「前石見守安倍朝臣」であり、正応四年七月以前には石見守を交代したことがわかる。三条実重の後任の知行国主は二条兼基であった。安倍某は正応三年に鷹司兼平が隠退したので同じ摂関家の九条家に仕えたのであろう。実重の祖父実親と九条忠教の母は兄弟である。

 

鎌倉中期の石見国司5

 文永一〇年(一二七三)三月日関白鷹司基忠家政所下文案の署判者に前石見守平朝臣がみえる。これが文永四年補任の平信名であろう。その後に『勘仲記』弘安二年五月一日条にみえる「前石見守仲親」を挟んで源師重が石見守となる。仲親は平時仲の子であるが、同母兄の仲兼は近衛家・鷹司家の家司を務める一方で文永一一年一二月二〇日には甲斐守に補任されている。仲親も近衛家の庶子となる鷹司兼平ないしはその子基忠のもとで石見守に補任された可能性が高い。仲親は建治二年九月二八日には関白近衛基平の娘で亀山天皇の女御となった新陽明門院のもとで下総守に補任されている。『勘仲記』の筆者藤原兼仲は鷹司家初代兼平の家司で、仲親も同じ立場にあった。
 富永氏は経藤の弟吉田経長がその日記『吉続記』の文永五年六月の記事に「殿下のもとに参り御祈用途について仲親を以て申し入れと」とあることから、経長が知行国主であった可能性もあるとするが、仲親が殿下の家司であったために彼を以て申し入れたのであり、経長との関係ではない。ここまでは鷹司氏が知行国主であろう。
 文永一一年(一二七四)七月二〇日には源師重が石見守に補任されている。土御門定通の同母弟通方の曾孫北畠師重で、北畠親房の父である。師重は文永七年の生まれで五才であるため、その父師親が知行国主であろうか。建治三年(一二七七)一〇月二三日に師重が石見守を辞任している。
 次いで弘安六年(一二八三)七月二〇日に藤原重氏が石見守に補任されたが翌七年一一月二五日には藤原基重に代わっている。重氏については弘安八年但馬国大田文に「国別当三江地石見前司重氏」とみえることが富永氏によって明らかにされているが、系譜上の位置づけは不明である。基重は園基顕の子であるが七才であり、父基顕が知行国主であったと考えられるが、弘安一〇年正月一三日に交代している。その後任は知行国主三条実重のもとで石見守となった安倍某であるので、弘安一〇年九月二一日に「前石見守仲秀」とみえる源(藤原ヵ)仲秀が石見守であったのは源師重が辞任した後の建治三年であった可能性が大きい(理由は「補足」として後述)。

 

鎌倉中期の石見国司4

 建長元年八月には「右近衛権中将源朝臣」(顕方)が播磨守であった。知行国主は後嵯峨院であろうか。建長六年三月四日の播磨守兼権左中将源朝臣は不明あるが、翌七年一二月一三日には源通氏の子具氏が補任され、康元元年(一二五六)一二月一三日に高階邦経に交代している。なお後嵯峨院の分国である。邦経は仁治元年四月五日には知行国主平有親のもとで出雲守に補任されている。次の国守藤原(園)基顕が補任された正元元年(一二五九)正月二一日の時点でも後嵯峨院分国である。
 正嘉元年(一二五七)三月二九日には藤原宗朝が石見守に補任されているが、幕府御家人宇都宮頼綱の子宗朝である。『吾妻鏡』同年八月一五日条には将軍宗尊親王が鶴岡八幡宮放生会を訪れているが、後に付従う「五位」の中に「石見守宗朝」がみえる。同年一一月一四日に知行国主に現任している藤原経藤が三月二九日に補任されたのだろう。宗朝は翌年六月四日の時点、さらには正元元年(一二五九)一〇月六日の時点(仙洞御移徙部類記)でも石見守であったが、弘長三年(一二六三)一月七日には「石見前司」とみえ、これ以前に交代していた。知行国主経藤も月日は未確認であるが弘長二年には異母弟経任が自らを越して左衛門権佐に補任されたことで希望を失い出家したので、この時点で知行国主・国守が交代した可能性が高い。
 文永二年(一二六五)一二月一三日石見守大見政家譲状がみえる。文永四年一〇月一七日に五節領状人について、公卿二名と受領が負担するが、藤原兼平については石見・越中間未定、平宰相(時継)は加賀と記されている(民経記)。鷹司兼平が石見国知行国主であった可能性が高い。時継は一一月に加賀国知行国主であることが確認できる(文永六年一一月八日には橘知嗣が現任)。文永四年一〇月二三日には小除目で「石見守平信名」がみえる(民経記)。

鎌倉中期の石見国司3

 寛元三年四月八日に源有長が播磨守に補任された。この有長は嘉禎三年八月一九日から仁治元年正月一日まで播磨守の現任が確認できるが、仁治元年一一月二四日には「播磨前司源有長」とみえ、一旦退任した後に、寛元三年に復任した。寛元四年に源定通のもとで播磨守であったのは「能季」であり、播磨守は交代している。能季は大中臣能季であり、寛元三年一二月二二日には除目で左衞門尉に補任されていた(平戸記)。
 源有長は承久二年一〇月二日から翌三年閏一〇月一九日に土佐守の現任が確認でき、承久の乱の影響は受けていない。嘉禄元年二月一一日には左大将九条教実の拝賀に続く着陣の儀式が行われたが、そこに有長がみえる。これに先立つ二月三日には八日に九条道家が九条第で行う詩会の準備が行われているが、有長が好みの歌人を書き出しており、有長は九条家の関係者であった。定通の前任の知行国主も九条道家かその子弟であろう。土佐国も建永三年四月四日の九条兼実から健保三年六月一一日の九条道家を経て嘉禄二年正月二七日の教実まで、知行国主として確認できるのは九条家の人々である。寛元四年の定通の播磨国知行国主は九条道家失脚の結果得られたものであった。
 宝治元年(一二四七)一一月八日に石見守に現任している「清継」は藤原清継で、寛元三年(一二四五)四月八日の除目で中務丞に補任されており、石見守となるのはこれ以降の事である。富永氏はこれを大中臣清継に比定しているが、別人である。『公衡公記』によれば清継は建長年中には石見国知行国主であったが、国守は欠となっていた(鎌倉遺文二一四一八)。翌宝治二年一一月二二日に徳大寺実基が石見国知行国主に現任し、建長六年(一二五四)八月日徳大寺実基家政所下文の署判者として石見守藤原朝臣がみえるが、清継とは別人であろう。実基は宝治元年七月八日の時点では長門国知行国主であり、次いで石見国知行国主となり建長七年一一月二〇日の時点でも石見国知行国主であった。その後、清継が知行国主となった。

鎌倉中期の石見国司2

 寛元二年一〇月四日の小除目に石見守平繁氏、寛元三年一二月二二日の臨時除目で石見守平忠允が石見守に補任されているが、両者ともこれ以外の国で国守となったことは確認できない。寛元四年一一月二八日には「前石見守中原友景」が関東申次西園寺実氏の使者として関東に下向し、一二月八日までに帰洛したが、再度派遣され一二月二四日夜に帰洛している。友景が石見守であったのは平繁氏の前であろう。友景の時の知行国主は西園寺実氏であろう。九条道家は実氏の姉妹である掄子が正室であったが、これ以降、両者の動向は明暗が分かれる。宝治二年七月一九日に下北面一一名が所領を与えられているが、中原友景等六名は播磨国で所領を得た。播磨国は後嵯峨院の分国だったのだろう。伊予国では三名に対して三箇所が知行国主西園寺実氏から与えられている。丹波国と備中国では各一箇所が後嵯峨院から与えられた(葉黄記=葉室定嗣の日記)。
 富永氏は寛元四年に後嵯峨天皇が即位すると、定通が石見国から播磨国知行国主に転じたとされたが、これまでみてきたように寛元四年の時点で定通は石見国知行国主ではなかった。天福元年の四年後の嘉禎三年には知行国主は交代したと思われる。西園寺実氏のもとで中原友景が寛元二年一〇月まで石見守であった。寛元二年八月二九日に実氏の父公経が亡くなると、関東申次は九条道家が独占したという。
 初代六波羅探題泰時は定通室の異母兄である。泰時の嫡子時氏が病となったため、その後任として寛喜二年(一二三〇)に六波羅探題北方となった重時は定通室の同母兄であったが、定通の復権は仁治三年(一二四二)に四条天皇が急死し、後嵯峨天皇が即位してからである。そして播磨国知行国主定通は宝治元年九月に六〇才で死亡した。それを受けて後嵯峨院の分国となったのだろう。

 

鎌倉中期の石見国司1

 富永氏は定通は寛元四年(一二四六)まで石見国知行国主であったと考えられたが、根拠はあるのだろうか。定通は嘉禎二年(一二三六)六月九日には内大臣となったが、翌三年一二月一八日には四条天皇の蔵人頭であった嫡子顕定を参議にするため、内大臣を辞している。四条天皇は母が九条道家の孫であり、顕定は親九条派であったのだろうが、仁治三年(一二四二)正月の四条天皇の死と後嵯峨天皇の即位は顕定の立場を飛躍的に強化した。ただ、その出世の壁となったのは寛元四年に太政大臣となるとともに関東申次となった西園寺実氏であった。この年の七月には九条頼経が将軍を隠退させられるとともに、九条道家も後嵯峨天皇を廃して後鳥羽院の子雅成親王を擁立する隠謀に関わったとして失脚した。同年五月以来の名越氏ら将軍派とされた御家人が排除された宮騒動にともなうものであった。定通の子顕定は建長二年(一二五〇)一一月一六日に因幡国知行国主となっている。一〇月二四日にみえる因幡守長氏もここで交代したと思われる。
 この時期の石見国司については、仁治二年(一二四一)八月二五日に幕府が大倉北斗堂供養を行った際に「江石見前司能行」がみえる。大江能行である。安貞二年(一二二八)一〇月までは兵衞尉であったがそれ以後、石見守に補任されたのであろう。その時期を考える材料となるのが、能行の娘を母とすると思われる武藤資能が貞永元年(一二三二)八月一三日の時点で「石見左衛門尉資能」と呼ばれている点である(吾妻鏡)。「石見」は大江能行が石見守であったことに由来するもので、これ以前に能行が石見守に補任されていたことを示す。資能はこの時点で三五才であり、その母方の祖父大江能行は七〇才前後には達していたと思われる。ちなみに父武藤資頼は四年前に六九才で死亡している。建長五年に比定できる八月一六日書状で六波羅探題北条長時が石見前司に対して、春日社の神鹿の問題に関して訴えについて使者行嗣と掌然に尋ねた結果を朝廷側に伝えるよう依頼している。『鎌倉遺文」は「石見前司」を大江能行に比定しているが、西園寺実氏の側近である中原友景であろう。

 

久永庄と出羽郷の堺相論2

 問題となるのは⑥年未詳八月二三日伏見天皇綸旨である。鎌倉遺文には「正応四年ヵ」として宛所の「右大将」を三条実重としているが、実重は右大将に補任されたことはない。また奏者の「右少弁経守」は「左少弁」が正しい。早稲田大学図書館のHPで当該文書の画像をみることができるが、「左」少弁と「右」大将の字形の違いは明らかである。高倉経守の関係史料をみると、正応四年一月一四日には「左衞門権佐」で、これが正応五年九月二六日には「左少弁」に変わったことが確認できる。正応四年の可能性は排除されないが、問題は「右大将」である。これを三条実重に比定したように、この時点の石見国知行国主であることは正しい。正応四年ならば内大臣二条兼基が兼務しており、五年以降ならば権大納言花山院家教である。
 一方、石見国司関係史料として、⑦正応元年一一月日関白前太政大臣家政所下文の署判者として「石見守安倍朝臣」がみえる。この時点の関白は九条忠教で、前太政大臣は鷹司兼平で悩ましい。鎌倉遺文は鷹司兼平とし、史料編纂所の花押カードデータベースでは九条忠教に比定している。同年八月一一日に関白が兼平から忠教に交代しているが、忠教は太政大臣に補任されていないので、兼平とすべきであろう。「前関白前太政大臣」とあれば正解なのだが。そして⑧正応四年七月日関白左大臣家政所下文の署判者に「前石見守安倍朝臣」がみえる。これは九条忠教で問題なく、⑦と⑧の花押を確認すると両者は同一人物である。すなわち⑧以前に石見守は交代し、同時に知行国主も交代した可能性が大である。一〇〇%までは断言できないが、⑥は正応四年で右大将は二条兼基であろう。ここから四年前の正応元年に三条実重が知行国主となったことも推測できる。
 ⑥では打渡に対して「善願」が狼藉を働いたことが記されている。出羽郷の地頭か郷司かは不明であるが、現地で所領支配にあたっていた武士であろう。以上、正応四年に知行国主三条実重・国守安倍朝臣某から知行国主二条兼基・国守某に交代したことが明らかになった。鷹司兼平は正応三年に出家・隠退しており、実務家安倍朝臣某は兼平の子ではなく、同じ摂関家である九条忠教の政所に再就職したのであろう。

久永庄と出羽郷の堺相論1

 この問題については二五年前に「中世史四題」(矢上高校研究紀要一九九三)で述べたことがあった。読み返してみると、正応四年(一二九一)二月一六日伏見天皇綸旨案に何故か(一三〇一)と注記をしており、我ながら驚かされるが、現時点での分析を述べてみたい。石見国知行国主の問題と関係してくるからである。
 残っている関係史料として最も早い時期のものは①正応二年五月二六日後深草上皇院宣である。賀茂神主久世から出羽郷により久永庄の領域が押領されているとの訴えを受けて、朝廷は訴えが正しいと判断し、国司に所領の打渡を命じている。国司請文と武家状が具書としてみえ、事実確認に国衙と守護が対応したことがわかる。
 ところがこれで一件落着とはならず、打渡は実現しなかったようで、再度の賀茂神主の申状をうけて、②正応四年二月一六日には伏見天皇綸旨が出され、「三条大納言」に打渡の実行を命じている。年号は月日の右肩への追記と端裏によるが一連の史料であり、問題はない。知行国主三条実重も他の関連史料からみて問題はない。正応元年一〇月二七日に右大将久我通基が内大臣となり、その大饗の記録に「三条大納言実重卿」が石見国を知行していることが確認され、翌年二月一三日にも見任が確認できる。実重は正元元年(一二五九)の生まれで正応元年には二〇才であるが、父公親は正応五年に七一才で死亡している。実重の姉妹には幕府将軍久明親王(後深草院子)の母である三条房子がおり、伊予国弓削島庄地頭にもなっている。
 ②を受けて前伯耆守光経奉書(三条実重御教書)が③二月二四日(宛所なし、綸旨と石見国司庁宣を国衙に送付したもの。国司庁宣そのものは残っていない)と④二九日(石見国目代宛に打ち渡しの実行を命じたもの)に出されている。そして⑤三月二日には目代と思われる右衛門尉国重から石見国惣田所に命令が伝達されている。光経は源光経で弘安一〇年には対馬守であったことが確認できる。

2018年2月 5日 (月)

12世紀後半以降の石見国司4

 建久三年七月一二日には藤原経成に交代している。経成は藤原成定の子で嘉禄二年正月二八日に土佐守に補任されているが、知行国主は九条教実であった。石見守の際の知行国主は教実の祖父九条良経であろう。経成は寛喜三年三月二五日には侍従に補任されている。祖父成定は西園寺通季の娘を母とし、九条兼実の娘任子(宜秋門院)に仕えその別当となった。文治三年正月三日に摂政兼実が臨時客の儀を行った際に「右少将成定」がみえる。
 正治元年(一一九九)七月一三日には藤原宣房が石見守から和泉守に遷任し、藤原雅家が石見守に補任されている。知行国主は藤原兼房であったことが確認できる。和泉国知行国主は宣房の兄長房で、長房は文治元年一二月には父光長が知行国主である和泉守に補任されている。やはり宣房の兄長房が宣房時代の知行国主であったと思われる。父光長(建久六年没)は摂関家家司であり、文治元年一二月二九日には九条兼実が知行国主であった和泉守に補任された。藤原雅家については富永氏の論文で、藤原定家の同母兄成家の子であることが明らかにされている。成家は国守は経験せずに建仁三年一〇月二四日に従三位に進んでいる。前に登場した藤原業盛についても、定家の母美福門院加賀の前夫為経の兄弟為業の子であることが富永氏により明らかにされている。為業は文治五年五月二八日に伊賀守に補任されている。為業の子範玄は建久六年一二月二八日には興福寺別当に補任されている。
 建仁三年(一二〇三)正月一二日には藤原長正が石見守に補任されている。正治二年正月五日には「労」により従四位下に進んでいる。同年二月一九日には九条良通の嵯峨堂供養が行われているが、布施を寄せた中に長正がみえる。元久二年(一二〇五)四月一〇日の除目で源頼兼が知行国主源定通のもとで石見守に補任され、長正は知行国主九条兼良のもとで筑前守に補任されている。長正が石見守であった際の知行国主も兼房の子である兼良であろう。
 承元三年(一二〇九)八月三日に石見守に現任が確認できる「邦輔」は藤原邦輔で、正治元年三月二三日の除目で検非違使に補任されている。文治二年三月一六日には摂政となった兼実の拝賀が行われ、従った公卿右大将良通の前駆四人の中に「邦輔」がみえる。建保元年(一二一三)正月一三日に石見守に補任された範宗は藤原信西(通憲)の孫基明の子で、文治元年正月二〇日に安芸守に補任。建暦元年正月二一日には範光卿の申請により丹後守に補任されており、知行国主は範光であった。範季の娘を室とし、範光はその兄弟範兼の子である。範季は兄範兼の養子となり、範兼の死後は範光らを育てた。公卿補任によると文治二年三月に安芸守を止められたとし、三月四日には平基親が知行国主として確認できるが、吾妻鏡の同年四月四日条ではなお安芸国司であるように思われる。建久五年正月一一日に「殷富門院」(後白河の第一皇女)給により従五位下に進んだ。建仁二年七月二三日の範光卿拝賀では源有雅などとともに前駆を務めている。建保元年二月二日に範宗を含む後鳥羽の近習が職を解かれたが、その時点で石見守も解任されたのであろうか。ただし、そのためか承久の乱に連座することは無かった。また、知行国主であろう範光も同年四月五日に死亡している。
 これに対して、「参軍要略抄」には建保二年一二月一六日の後鳥羽院の宇治行幸が記され、その供奉人として「五位石見守信盛」がみえている。藤原範宗の後任として藤原信盛が石見守に再任され、石見国は後鳥羽院の分国となったと思われる。源定通が二度目の石見国知行国主となったのは四年後の建保五年で、四年後の承久三年に重任したのであろう。

知行国主源定通2

 寛喜二年(一二三〇)七月には大神宮役夫工・神宝用途が闕如するため、重任の功を募っている。安房国知行国主になったばかりの源顕平は新任であるのに重任の功を進めると申し出たが、土御門定通は石見の知行国主となって以来、成功を進めていないので、この功を進めるべきとの意見を藤原定家が掲載している(明月記)。すくなくともこの年以前に石見国知行国主となっていたことがわかる。
 寛喜三年に比定される九月一一日書状(請文)で石見守忠長が公卿勅使禄物について、去年と今年の石見国の状況は大変悪く計略のしようがないと述べている。全国的な寛喜の飢饉の最中であり、石見国も同様であった。出雲守藤原時通も九月八日の請文で損亡が地を払うほどである上に大社造営のため出雲国は公卿勅使禄物のような召物は免除されるはずだと述べている。
 天福元年六月一七日には炎旱のため降雨を祈る儀式を行うこととなり、その用途を定通(石見)、新宰相平有親(出雲)、二条前中納言藤原良美(伊賀)、知宗(伊勢)の知行国に課すとともにその他の任官功(成功)を充てるとしている。
 選ばれた国の飢饉の状況が相対的に良かったという仮説は忠長請文からみて成り立ちにくい。出雲国をみると、安貞元年(一二二七)一〇月四日に平有親が知行国主、その子有時が出雲守に補任されている。すると四年後の寛喜三年が重任の時期となる。伊勢国も同様に鷹司(摂関家とは別)伊平卿のもとで藤原資広が国守に補任されている。ここに源定通の名がみえないのは、その四年前である貞応二年(一二二三)以前には知行国であったことになる。それと承久三年一二月に大中臣忠長が石見守に補任されていることを併せて考えると、その時点の知行国主は定通となろう。そしてそれは承久の乱以前に遡る可能性が強いが、国守については交代させて忠長を補任しただろう。建保元年(一二一三)正月に藤原範宗が国守に補任されたが、翌二月には解任された可能性が高いことを述べた。知行国主であろう範光も同年四月五日に死亡している。その後院分国となり藤原信盛が石見守となり、源定通は四年後の建保五年に石見国知行国主となり、承久三年に重任したのであろうか(定通については訂正)。

知行国主源定通1

  富永美恵子氏は元久二年(一二〇五)から天福元年(一二三三)まで源定通が石見国知行国主であったとされた。摂関家家司である一方で院近臣という例も珍しくない中で判断は難しいが、前述のように藤原邦輔と藤原範宗が国守であった際の知行国主は、前者は九条良通、後者は藤原範光であり、定通ではない。
 元久二年の石見守源頼兼は源頼政の子で、幕府御家人として大内守護を務めていた。そうした中での石見守補任であった。定通は一八才であり、実権は父通親が握っていたであろう。
 頼兼は、文治二年三月には父頼政以来の所領である丹波国五箇庄(京都府南丹市)が平家により没収されていたのを「平家没官領」として頼朝から与えられていたにもかかわらず、後白河法皇が自領に組み込もうとしているとして頼朝に嘆き申し出ている。これに対して頼朝も後白河に取り次ぐ約束をしている。頼兼の姉妹二条院讃岐を室とする藤原重頼もまた隠岐国や若狭国に所領を与えられていた。両者とも没年は不明であるが、頼兼の子頼茂もまた大内守護の職務を行う中、承久の乱の二年前に将軍職を望んだとして後鳥羽上皇の命令を受けた武士により襲撃され、自害に追い込まれた。
 定通の室の一人に北条義時の娘竹殿がいる。竹殿は最初大江広元の嫡男親広と結婚したが、間もなく定通と結婚した。両者の最初の子顕親は承久二年(一二二〇)の生まれであり、三代将軍実朝の晩年に婚姻が成立したのであろう。承久三年の承久の乱には関わったが積極的ではなく、一時的に出仕をやめて恐懼の処分を受けたが、同年閏一〇月九日には処分が解除されている。定通は異母兄通宗の養子となり、通宗の娘は土御門上皇(母承明門院は異父姉)との間に承久二年には後の後嵯峨天皇を生んだが、承久三年八月に死亡した。
 承久三年閏一〇月一〇日に除目により新たな大臣が三人誕生し、同日には土御門上皇が土佐に配流されており、定通の地位は低下したが、一二月一〇日に九条道家に替わって摂政復帰した近衛家実が吉書始めをした際に、定通が上卿を務めている。その二日後には除目が行われ、一緒に恐懼処分となっていた藤原信成は参議を停止され、前大納言藤原定輔は太宰権帥を解任されているが、定通は処分がなく、伊勢神宮神官である大中臣忠長が石見国守に補任されている。

2018年2月 4日 (日)

12世紀後半以降の石見国司3

肝心な点(石見守藤原信盛)を失念していたので、これを「3」とし、従来の「3」の大部分は「4」に移し、なおかつ大幅に加筆・修正した。
 文治元年(一一八五)一二月の除目で、義経とのかかわりがあった院近臣が解任された。その中に蔵人頭光雅も入っており、石見国知行国主は権大納言藤原宗家、国守は藤原業盛に交代した。義経との関係があまりなかったのであろう。宗家は藤原宗能の子で、その室は光雅の姉妹であった。国守業盛については史料を欠くが「後白川院北面歴名」に前「石見守」藤原業盛とみえる。他の国守補任は確認できないが歌人として知られた藤原為忠-為業(寂念)を祖父と父とした人物であった。
 同史料には「石見守」藤原信盛がみえており、業盛の後任の石見守として藤原信盛が補任された可能性が大きい。永久元年(一一一三)一〇月に謀反を鎮圧した功により検非違使藤原盛重が石見守に補任されている。その兄弟定仲もまた天仁二年(一一〇九)八月二四日に「石見前司定仲」とみえる。定仲は藤原忠実の家司であり、摂関家との関係で石見守となった。ところが次の天仁元年正月の除目は子堀河天皇の死と孫鳥羽天皇の即位により初めて白河院の主導のもと行われた人事であった。盛重は定仲とは異なり白河院との関係で石見守に補任された。永久四年には東大寺大仏殿四面廻廊の修理を行うことで重任し、保安元年(1120)十二月二十四日に相模守に遷任するまで七年間務めた。元永二年(1119)九月二十七日の鳥羽法皇の熊野御幸では、つき従う北面下臈として「備中守平正盛」とともに「石見守盛重」がみえている。まさに盛重は平正盛の後を追う人物で、これを契機にその子孫も院北面とともに西国国司を務めていくことになる。
 盛重の孫能盛と兼盛は後白河院との関係から平氏のクーデターでは弾圧を受けているが、平氏の滅亡により復活し、両者の従兄弟になる信盛が後白河院との関係で石見守に起用された。文治五年(一一八九)閏四月二二日に知行国主宗家が死亡しており、石見守も交代し、信盛が補任されたと思われる。後白河院が分国主であろうか。建久三年(一一九二)三月日後白河院庁下文(大徳寺文書、鎌倉遺文五八四)に「前石見守藤原朝臣」とみえるのは信盛であろう。
  次いで石見守関係記事としてみえるのは、建久二年(一一九一)六月四日の「仲遠給石州」(玉葉)である。卜部仲遠は仁安二年(一一六七)一二月三〇日に下野守に補任され、承安元年(一一七一)一二月二九日に重任している。仲遠は橘氏の氏神梅宮社(山城国、摂関家氏長者が支配)の社務として八条院領和泉国宇多庄の支配に当たっていたが、その一方では「後白川院北面歴名」に「前下野守」としてみえている。石州を与えられたとは知行国主のことであり、仲遠が後白河院から優遇されていたことがわかる(龍野加世子「八条院領の伝領過程をめぐって、「法政史学」四九)。[4に続く]

12世紀後半以降の石見国司2

 後白河が院近臣中の近臣藤原能盛を出雲守に起用するため、押し出される形で朝方・朝定父子が石見国知行国主・国守に転じた。その後両者は出雲国に復帰し、朝定は養和元年(一一八一)三月六日に出雲守に重任している。一方、後任の石見守としては治承二年(一一七八)八月二四日に「藤原致頼」がみえるが、「能頼」の誤りで、知行国主父光雅(宗頼の実兄)のもとで一族(光頼の従兄弟重方の子)の能頼が起用されたものであろう。約三年経った治承元年初めに朝定から能頼に交代したと思われる。
 富永氏は養和元年(一一八一)八月から一二月にかけて、石見国が皇嘉門院の分国となり、源季広が国守であると述べられた。その根拠として八月一日に石見国所課が持参されたと院の家司吉田経房がその日記『吉紀』に記している点と、一一月二日に皇嘉門院新造御所について「作事石見大進季広奉行之」とある点(『同』)をあげられたが、それ以外の解釈が可能である。益田庄と大家庄という石見国の大荘園が皇嘉門院領であり、そのためであろう。「石見大進」との官職もないので、作事を石見国の庄園が負担し、担当したのが「大進」である源季広であった。季広も源季兼の子だが、国守として確認できるのは下野守のみである。「大進」は皇嘉門院に関わるポストであろう。井上寛司氏作成の「中世石見国関係史料編年目録」によると、吉記の養和元年(一一八一)一一月一五日条に「石見守能頼、三位殿(九条兼実弟兼房ヵ)家司」とあるようであり、皇嘉門院と源季広が石見国を支配したとの説は成り立たない。
 寿永元年(一一八二)八月一日には「石見守能頼」がみえ、能頼は石見守を重任していたと考えられる。富永氏は前年一二月に皇嘉門院が死亡したために復帰したと解釈されたが、院近臣が知行国主・国守となる状況にそぐわないものである。

12世紀後半以降の石見国司1

 富永恵美子氏「賀茂別雷神社領石見国久永庄についての一考察」で、この問題について述べられているので、検討してみたい。富永氏は中世史ハンドブック、日本史総覧Ⅱについて言及されていないが、両者との一致点と修正点が明確であればなおよかった。
 藤原永範までは摂関家家司であった点はすでに述べた。後任は藤原為行で、仁安元年(一一六六)一〇月一〇日から嘉応元年(一一六九)一一月二五日まで現任が確認できる。承安四年(一一七四)から安元二年(一一七六)にかけては備後守であったことが確認できる。永暦元年(一一六〇)九月二日に飛騨守に補任され、応保元年一一月二九日に解官された「為行」も同一人物であろう。保元二年正月二四日に飛騨守に補任され、翌年八月に現任が確認できる源季長は石見守季兼の子で、為行解任後の応保元年一一月から長寛二年六月まで飛騨守現任が確認できる。富永氏は『愚管抄』に院の近習(北面下臈)としてみえる為行とも同一人物とされる。備後前司為行が清盛のクーデター時に殺害されており、後白河の近臣であったことは確実である。嘉応元年一〇月には久利郷司清原長房の訴えが 認められ、河合友弘の押狩が停止されている
 次いで嘉応二年(一一七〇)正月一八日に高階経仲が石見守に補任されたが、翌承安元年(一一七一)一二月八日の除目で藤原有定に交代し、常陸守に補任されたが治承三年(一一七九)一一月二三日に清盛のクーデターで解官されている。解官前の知行国主は父泰経であった。経仲は配流されたが翌年に召還されていおる。経仲は院近臣泰経の子で、文治元年には父とともに義経との関わりにより解官されているが、後に許され、公卿になって七〇才で死亡している。
 藤原有定は院近臣葉室成頼の猶子で、成頼の申請により石見守に補任されたが、承安四年(一一七四)正月二一日には院近臣藤原朝方の子で前出雲守朝定が石見守となった。有定は約二年で交代したが、他国での国司補任は確認できない。成頼は同年正月に出家しており、同じくその養子となっていた宗頼(実父は成頼の兄光頼)も、後白河の近臣として登用された同母兄光雅に昇進で劣っていた。但し文治元年一二月に光雅が義経関係者として解官されたのに対して、宗頼は高階泰経に替わって大蔵卿となり、以後は九条家と結んで出世する。光雅の子親俊が建仁二年(一二〇一)に出雲守に補任されたのは養父宗頼のとの関係であった。実父光雅は前年三月に死亡している。
(補足)為行は承安四年九月一〇日には申請していた最勝光院への所領(村櫛庄ヵ)寄進が後白河・建春門院に伝えられている。弟為保が仁安二年には隣国の駿河守に見任している(安元二年には上総介に見任)。為保も治承三年のクーデターで殺害される。

2018年2月 1日 (木)

長寿寺について2

 三重県史に建武三年一二月 日長寿寺雑掌元通申状が残されており、寺領阿野庄金沢村等の安堵を求めていることは「1」に追記して補充したが、その他の関連史料を確認したので以下に述べる。
 伊勢神宮の図書館とでもいうべき神宮文庫所蔵の『輯古帖』には建武四年二月十三日光厳上皇院宣が残されており、寂淳禅師に対して「長寿寺領所々知行」を安堵し、所務を全うするよう命じている。申状の要求は認められた。次いで応永二〇年に建仁寺永源庵領が安堵された際に、末寺長寿寺とその所領も安堵されたことは「1」で述べた。
 次いで『蔭凉軒日録』長禄三年(一四五九)一〇月一七日条には「綱持」の事で近江国迩保庄(賀茂社領、地頭曽我氏)寺庵、臨済宗南禅寺慈聖院末寺駿河国長寿寺、浄土宗勝定院末寺(伊勢国ヵ)長光寺、臨済宗西芳寺末寺寺香林庵、浄土宗安禅寺末寺(近江国ヵ)永福寺を闕所とするとの幕府の方針に対して、撤回を求めている。『史料総覧』の綱文では闕所=廃寺と解釈している。この時点での長寿寺は建仁寺永源庵の末寺から南禅寺慈聖院の末寺の扱いに変更されていた。既に述べたように長寿寺と阿野庄はそれぞれ独立した扱いで、長享二年(一四八八)には阿野庄内東原村は、前述の史料にみえる西芳寺領であった。
 その後の状況は史料を欠いているが、長寿寺の置かれた状況は保護する力が小さくなる中で廃絶し、文書は三重県内に二点確認できるように、それを所持する関係者が伊勢国に移動していた可能性が大きいが、そこからさらに流出したのものが、出雲国の安国寺に持ち込まれたのであろう。伊勢国に移動した背景としては上記の浄土宗勝定寺末寺長光寺が伊勢国に存在したことであろうか。出雲国迎接寺文書には宝光寺文書も含まれているが、ともに真言宗寺院と思われる。

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