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2018年2月 9日 (金)

鎌倉中期の石見国司6

 これに対して『勘仲記』弘安九年(一二八六)閏一二月一一日条に「石見前司定成」がみえているが、世尊寺定成である。重氏が補任された弘安六年以前の国守であろう。『実躬卿記』弘安一一年(一二八八)四月一〇日条に藤原公貫がその室とともに春日社に参詣しているが、付き従った諸大夫二人の中に「石見前司仲秀」がみえる。翌一一日条にも諸大夫奉幣として、美作前司藤原為重とともに仲秀がみえ、前年の九月二一日条にも「諸大夫前石見守仲秀」とみえている。公貫は三条実躬の父である。為重は弘安六年四月五日に美作守に補任されている。仲秀は園基重の後任であろうか。『実躬卿記』正応五年(一二九二)二月二七日には除目で佐渡守に源仲秀が補任されたことが記されている。知行国主は一部を除き明らかではないが、短期間で交代するのは知行国主の上に分国主として院ないしはその関係者がいたからであろうか。
 正応元年(一二八八)一〇月二七日の「任大臣大饗」(鷹司兼忠が内大臣)に石見国知行国主三条大納言実重がみえる(勘仲記)。次いで一一月日(前)関白前太政大臣鷹司兼平家政所下文の署判者に「石見守安倍朝臣」がみえる。安倍某は摂関家の家司を務める一方で三条実重のもとで石見守となっていたが、実務は目代国重が行っていた。当時は専門家しており、知行国主が交代しても同じ目代が起用されることもあり、一方では預所などの庄官を務めるものも珍しくなかった。『公衡卿記』正応二年二月一三日条に「石見国幣料無沙汰」として「国司三条大納言」がみえ、引き続き実重が知行国主であった。石見守安倍朝臣と同じ人物と思われるのが正応四年七月日(五月二七日より関白)と九月日(写)、正応六年六月日(写)の関白左大臣九条忠教家政所下文の署判者「前石見守安倍朝臣」であり、正応四年七月以前には石見守を交代したことがわかる。三条実重の後任の知行国主は二条兼基であった。安倍某は正応三年に鷹司兼平が隠退したので同じ摂関家の九条家に仕えたのであろう。実重の祖父実親と九条忠教の母は兄弟である。

 

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