koewokiku(HPへ)

« 鎌倉初期の隠岐国司4 | トップページ | 佐々木義清と淡輪庄 »

2018年2月25日 (日)

鎌倉初期の隠岐国司5

 建保六年一一月二一日には幕府御家人二階堂行村が隠岐守に補任されている。二階堂氏は大江氏、三善氏と同様京下りの公家出身である。行村は二階堂行政の子で、検非違使として鎌倉幕府では治安維持を担当し、隠岐守補任の翌年正月二七日には出家しているが、嘉禄元年には幕府評定衆に補任されるなど、現職で活動していた。承久記によると後鳥羽院が催した公卿・諸将の中に石見前司とならんで隠岐守がみえているが、具体的人物への比定は不明である。過去に石見守を務めた源頼兼の子頼茂は源実朝の側近であったが、承久元年に鳥羽院によって滅ぼされている。隠岐守は二階堂行村の可能性はあるが、『吾妻鏡』五月二三日条に鎌倉に留まった宿老の中に隠岐左衞門入道行阿(行村)がみえている。
 二階堂氏一族は北条氏を除けば幕府御家人で最も多くの国守に補任されている。知行国主との個別的関係もあろうが、その経済力を背景に働きかけた実現したのではないか。隠岐国守護佐々木氏が義清-泰清-時清-清高(清高の父宗清は確認できない)
 嘉禄元年に行村は評定衆に選ばれているが、そこには隠岐守とあり、承久の乱後も隠岐守であった可能性が強いが、安貞元年(一二二七)三月一一日には出雲・隠岐両国守護佐々木義清が隠岐守に補任されている。義清はこれに先立ち嘉禄元年(一二二五)正月二七日には出雲守に補任されていた。
 安貞二年五月日禅定従二位近衛家実家政所下文の署判者に別当前隠岐守源朝臣がみえる。佐々木義清と源仲家が候補となるが、源家長の例によると仲家の可能性は低く、義清であろう。なぜ御家人が政所別当にとの疑問が出かもしれないが、この時期の近衛家の政所下文をみると体制の再構築期であるからか、数は少なく且つ別当はすべて異なっている。嘉禎元年九月日(前太政大臣=家実)となると体制が整備されたのか別当右大弁藤原(光俊)以下六名署判という本来の形になっている。

« 鎌倉初期の隠岐国司4 | トップページ | 佐々木義清と淡輪庄 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 鎌倉初期の隠岐国司5:

« 鎌倉初期の隠岐国司4 | トップページ | 佐々木義清と淡輪庄 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ