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2018年2月14日 (水)

鎌倉中期の出雲国司5

 文永元年には従二位参議である四二才の時継は前年までの「近江権守」からはずれ、逆に前年には散位であった六二才の前大納言四条隆親が九月二〇日には兵部卿に補任されている。そして同年一〇月八日には平朝臣某が出雲守であったが、一五日には隆親の子隆良が出雲守に補任されている。時継は文永四年一一月には加賀国知行国主に現任しているが、文永元年一〇月一五日には同年正月の除目で補任されたばかりの藤原範世が加賀守を得替しており、この時点で時継が出雲国知行国主から加賀国へ遷任した可能性がある。範世は他国の国守になったことは確認できないが、その後も左中将に進み、殿上人として活動している。
  出雲国知行国主四条隆親の目代としては、左衛門尉高階氏定がいる。出自を示す史料はないが、建長八年四月五日賀茂社祭に関する功による除目が行われているが、そこに「左衛門尉 高階氏定」がみえている。その起用は知行国司が有親から時継に代わった時点ではないか。建長元年一一月二二日の五節に際して出雲国知行国主権右中弁時継が関わっており、これ以前に知行国主が交替していた。建長元年八月日三年八月日出雲大社遷宮神宝注進状を作成した細工所別当左近将監源宗房は時継の目代源右衛門入道宝蓮の子であり、この報告の完了をもって知行国主が代替わりしたのではないか。
 建長三年八月日出雲国司庁宣にみえる「大介高階朝臣」が出雲国司であり、その際に同族の高階氏定が目代に起用されたのだろう。そしてそれは文永元年に知行国主が後嵯峨院の近臣四条隆親に交替しても変わらなかった。出雲国はこれ以降、後深草院の分国となったとされるが、それ以前から実質的に治天の君の分国ではなかったか。承久の乱の前から後鳥羽院の近臣源有雅が長期間知行国主であった。乱後も守貞親王とその室の甥である持明院家行が知行国主となり、その死亡により一時的に二条定輔がこれに替わった。定輔もまた間もなく死亡したため、出雲大社造営に関わった藤原光隆の孫で、土御門天皇の准母であった範子内親王や守貞親王と関わりに深かった平有親が知行国主に起用された。杵築大社造営が延びたことも留任の原因であろうが、それ以上に守貞親王と土御門院の子である後嵯峨院の支持があったため、備中国の例を紹介したように、四年任期切れが近づくと様々な人々から知行国主補任の希望が出される中、出雲国では杵築大社遷宮終了後も有親の子時継に知行国主が継承された。承久の乱を挟んで、後鳥羽院-守貞親王-後堀河天皇-四条天皇-後嵯峨天皇という治天の君とその関係者が出雲国知行国主の決定権を握り、その後、後嵯峨の子である後深草と亀山が即位する中、出雲国が退位して上皇となった後深草の院分国となったのであろう。

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