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2018年2月 9日 (金)

鎌倉中期の石見国司5

 文永一〇年(一二七三)三月日関白鷹司基忠家政所下文案の署判者に前石見守平朝臣がみえる。これが文永四年補任の平信名であろう。その後に『勘仲記』弘安二年五月一日条にみえる「前石見守仲親」を挟んで源師重が石見守となる。仲親は平時仲の子であるが、同母兄の仲兼は近衛家・鷹司家の家司を務める一方で文永一一年一二月二〇日には甲斐守に補任されている。仲親も近衛家の庶子となる鷹司兼平ないしはその子基忠のもとで石見守に補任された可能性が高い。仲親は建治二年九月二八日には関白近衛基平の娘で亀山天皇の女御となった新陽明門院のもとで下総守に補任されている。『勘仲記』の筆者藤原兼仲は鷹司家初代兼平の家司で、仲親も同じ立場にあった。
 富永氏は経藤の弟吉田経長がその日記『吉続記』の文永五年六月の記事に「殿下のもとに参り御祈用途について仲親を以て申し入れと」とあることから、経長が知行国主であった可能性もあるとするが、仲親が殿下の家司であったために彼を以て申し入れたのであり、経長との関係ではない。ここまでは鷹司氏が知行国主であろう。
 文永一一年(一二七四)七月二〇日には源師重が石見守に補任されている。土御門定通の同母弟通方の曾孫北畠師重で、北畠親房の父である。師重は文永七年の生まれで五才であるため、その父師親が知行国主であろうか。建治三年(一二七七)一〇月二三日に師重が石見守を辞任している。
 次いで弘安六年(一二八三)七月二〇日に藤原重氏が石見守に補任されたが翌七年一一月二五日には藤原基重に代わっている。重氏については弘安八年但馬国大田文に「国別当三江地石見前司重氏」とみえることが富永氏によって明らかにされているが、系譜上の位置づけは不明である。基重は園基顕の子であるが七才であり、父基顕が知行国主であったと考えられるが、弘安一〇年正月一三日に交代している。その後任は知行国主三条実重のもとで石見守となった安倍某であるので、弘安一〇年九月二一日に「前石見守仲秀」とみえる源(藤原ヵ)仲秀が石見守であったのは源師重が辞任した後の建治三年であった可能性が大きい(理由は「補足」として後述)。

 

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