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2018年2月 9日 (金)

鎌倉中期の石見国司4

 建長元年八月には「右近衛権中将源朝臣」(顕方)が播磨守であった。知行国主は後嵯峨院であろうか。建長六年三月四日の播磨守兼権左中将源朝臣は不明あるが、翌七年一二月一三日には源通氏の子具氏が補任され、康元元年(一二五六)一二月一三日に高階邦経に交代している。なお後嵯峨院の分国である。邦経は仁治元年四月五日には知行国主平有親のもとで出雲守に補任されている。次の国守藤原(園)基顕が補任された正元元年(一二五九)正月二一日の時点でも後嵯峨院分国である。
 正嘉元年(一二五七)三月二九日には藤原宗朝が石見守に補任されているが、幕府御家人宇都宮頼綱の子宗朝である。『吾妻鏡』同年八月一五日条には将軍宗尊親王が鶴岡八幡宮放生会を訪れているが、後に付従う「五位」の中に「石見守宗朝」がみえる。同年一一月一四日に知行国主に現任している藤原経藤が三月二九日に補任されたのだろう。宗朝は翌年六月四日の時点、さらには正元元年(一二五九)一〇月六日の時点(仙洞御移徙部類記)でも石見守であったが、弘長三年(一二六三)一月七日には「石見前司」とみえ、これ以前に交代していた。知行国主経藤も月日は未確認であるが弘長二年には異母弟経任が自らを越して左衛門権佐に補任されたことで希望を失い出家したので、この時点で知行国主・国守が交代した可能性が高い。
 文永二年(一二六五)一二月一三日石見守大見政家譲状がみえる。文永四年一〇月一七日に五節領状人について、公卿二名と受領が負担するが、藤原兼平については石見・越中間未定、平宰相(時継)は加賀と記されている(民経記)。鷹司兼平が石見国知行国主であった可能性が高い。時継は一一月に加賀国知行国主であることが確認できる(文永六年一一月八日には橘知嗣が現任)。文永四年一〇月二三日には小除目で「石見守平信名」がみえる(民経記)。

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