koewokiku(HPへ)

« 文永末~弘安初の出雲国衙3 | トップページ | 出雲・石見国知行国主の補足1 »

2018年2月15日 (木)

文永末~弘安初の出雲国衙4

 文永一二年正月日杵築大社領家松殿兼嗣は「前国司沙汰之時は阿式社の寸法で移造すべしと院宣が出されたが、当国司は義孝所持の日記文書を召し出すべし」としたので文書が混乱して造営の遅々としてすでに五年が経ってしまった」と述べているが、これが文永一一年中の隆親から経俊への知行国主の交替であったと思われる。これに関連して、年未詳一二月一五日院宣があり、文永九年の後嵯峨上皇院宣ないしは亀山上皇院宣に比定されていたが、ともに成り立たず文永一一年の亀山上皇院宣であるとの説を提示した。これに対して松江市史では西田氏が再検討し、文永九年の後深草上皇院宣であるとの説を示した。
経俊は文永一一年九月一〇日に治部卿を兼ねており、同年一二月一五日の院宣ならば「治部卿」と署名するとの意見もあろうが、建治二年五月二三日亀山上皇院宣(醍醐寺文書)は、「院御気色所候也」の表現や、年を付けずに「中納言経俊」と署名するなど、一二月一五日院宣と共通する点が多い。年次比定は端裏書による。
 西田説は出雲国が後深草院の分国であったので院宣が出されたというものであるが、問題なのは奏者経俊は大覚寺統系の人物で後深草院宣に関わる可能性がないことである。文永九年の関係文書と当該文書の内容が違うので、それ以後のものであるということはすでに述べた通りである。
 年末の顕家の得替を受けて、一一年初めに出雲守となったのが知行国主隆親の甥の子隆泰であったが、院宣とともに「国造義孝と共に」との指令を受けた目代高階氏定は、院宣の内容と異なるとして激しく抵抗したと思われる。これ対して隆親と隆泰は亀山上皇院宣を出してもらうことで、目代を押さえ込もうとしたが、やはりうまくいかずに出雲国の支配を辞退したのだろう。杵築大社造営をめぐっては、目代と在国司長田政元(朝山昌綱の死と子時綱が年少であったため代行)、出雲大社神主出雲実高が国造義孝、これを支持する守護佐々木泰清並びに幕府と対立していた。
 これに対して文永一二年早々に知行国主となったのが院宣の奏者吉田経俊であり、有無をいわせずに目代に指令したのだろう。その方針転換を述べたのが文永一二年正月日の領家松殿兼嗣下文であった。
 当初は文永一一年の比定を、「治部卿」を根拠に文永一〇年に見直せばよいと思い、この文を書き始めたが、文永一〇年末にはなお亀山天皇であった。そのため院宣は一〇〇%ありえないことに気づき、「中納言」と署名し年を記さない経俊が奉じた亀山上皇院宣があることも確認し、自説を補強した。院分国の問題も、一旦は文永一二年初めに院分国ではなくなったが、中断を挟んで弘安四年に亀山の院分国となったとすべきであろう。多分一五年前にもよくよく考えて院宣を文永一一年に比定したのだろう。ただし、その時点では今ほど史料を実際に見る環境にはなかった。 

« 文永末~弘安初の出雲国衙3 | トップページ | 出雲・石見国知行国主の補足1 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 文永末~弘安初の出雲国衙4:

« 文永末~弘安初の出雲国衙3 | トップページ | 出雲・石見国知行国主の補足1 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ