koewokiku(HPへ)

« 鎌倉中期の出雲国司3 | トップページ | 鎌倉中期の出雲国司5 »

2018年2月14日 (水)

鎌倉中期の出雲国司4

 この次の国守交替で知行国主が有親から時継に交替したと思われる。時継は暦仁元年閏二月二七日に父貞親が参議を辞職することで五位蔵人に補任された。貞親は仁治元年六月一四日には出家している。建長元年の出雲守として「兼重」がみえる。関係史料はほとんど確認できていないが、建暦二年一一月一一日の除目で従五位下となった「高階兼重」であろう(藤原兼重とした点を修正)。建長三年(一二五一)には高階朝臣某が出雲守であるが、同一人物で、国司庁宣には知行国主時継が袖判を加えている。次いで建長七年(一二五五)には国守が卜部宿祢に交代、康元二年(一二五七)には三善朝臣、文永元年(一二六四)一〇月八日には平朝臣がみえるが、庁宣の袖判には変更がない。ただし同月一五日には知行国主四条隆親のもとで四条隆良が出雲守に。文永四年(一二六七)二月には藤原顕家に交代している。
 杵築大社造営が長期化する中、知行国主平貞親-時継父子は留任し、国守は四年毎に交替しているが、国衙の実務を掌握していたのは目代である。嘉禄二年四月に目代左衛門尉家忠が竹矢郷内一町三段の田を平浜八幡宮に寄進しているが、これは守護兼国守の義清の目代であろう。貞永元年九月日出雲国留守所下文の最後に署判している「目代右衛門尉源」が知行国主平貞親が起用した目代である。建長元年六月日杵築大社遷宮日時・神事勤行儀式次第注進状の末尾(ただし在庁官人より一段上)にも「目代沙弥」が署判を加えている。本文中には「源右衛門入道宝蓮」と記されており、貞永元年の右衛門尉源と同一人物であろう。貞親が知行国主である間は目代は同一人物が務めていた。
 建長元年に杵築大社遷宮とその後処理が終了したため、知行国主は貞親から子の時継に交替した。時継は建長四年一二月四日に宮内卿・治部卿を経て蔵人頭に進み、建長七年二月二日に正四位下参議に補任され、公卿となった。後嵯峨天皇の皇子で寛元四年一月二九日に即位した後深草天皇の蔵人頭であった。正嘉二年には正三位に進んだが、翌正元元年一一月二六日には後深草の弟亀山天皇が即位した。

 

« 鎌倉中期の出雲国司3 | トップページ | 鎌倉中期の出雲国司5 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 鎌倉中期の出雲国司4:

« 鎌倉中期の出雲国司3 | トップページ | 鎌倉中期の出雲国司5 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ