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2018年2月28日 (水)

鎌倉末期の出雲国司3

 元応元年(一三一九)閏七月九日六波羅御教書によると、出雲国雑掌重氏・源誉等が塩冶・古曽石・美保・生熊郷の下地・年貢について訴え、知行国主である左大臣洞院実泰が幕府に訴状を副えて訴えている。これを受けて六波羅探題が出雲国守護信濃大夫判官貞清に代官を進めて弁明することを求めている。塩冶・美保・生馬は貞清が地頭であり、残る古曽石同様で、守護としてではなく地頭正員としての貞清に伝えられたものであった。嘉暦元年(一三二六)二月一九日には園基隆が出雲守に補任されているが、一三才である。その母は小倉実教の娘であり、実教ないしは基隆の父基成が知行国主ではなかったか。実教は洞院実雄の孫で、実雄と一条頼氏の娘との間に生まれたのが実教の父小倉公雄であった。洞院実泰と実教は従兄弟であった。実泰の父公守の姉妹が後宇多院の母であることもあって、この時点の実泰は大覚寺統系であろう。実泰の子公賢は後醍醐の寵姫阿野廉子の養父となっている。
 以上まとめると、弘安四年に亀山院の分国となったが、弘安六年以降は持明院統系の分国であったと思われる。建治元年に伏見が後宇多の皇太子となり、持明院統が復権する中、それぞれの利権について両統で線引きがなされたと思われるが、出雲国は持明院統の縄張りに入った。ただし、文保二年(一三一八)二月二六日に大覚寺統の後醍醐天皇が即位したことで、再び大覚寺統系に移ったと思われる。嘉暦二年九月五日関東御教書によると杵築大社造営料米について文保二年一二月二五日御教書で、一万一八七〇余石を充てて造営を終えるように定めたが、勘定したところ七五八〇余石が治定した。そのため正応・永仁の例に任せて当国反別三升米を充課して造営を遂げるように神主に命じている。大覚寺統に替わったことで、文保二年に新方針が出されたのであろう。
国守                               分国主
                                                   
某     ~一二八三年三月              亀山院
平兼有   一二八三年三月~一二月         後深草(伏見)ヵ
某     一二八三年一二月~一二八四年七月      後深草(伏見)ヵ
平忠俊   一二八四年七月~                          後深草(伏見)ヵ
菅原長躬  一二八九年以前                            後深草(伏見)ヵ
某惟賢   ~一二八九年四月~                        後深草(伏見)ヵ
堀川親方   ~一二九六頃                後深草(伏見)ヵ
某      ~一三〇一年一月               日野俊光
橘宗成      一三〇一年一月~一三〇三年八月以前  中御門為方
某     一三〇三年八月以前~一三〇五年一二月 西園寺公衡
藤原致連  一三〇五年一二月~             ?
某     ~一三一九年閏七月~         洞院実泰(大覚寺統系)
園基隆   一三二六年二月~           小倉実教(同上)ヵ

☆松江市史通史編2中世に西田氏作成の表があるが、国守に菅原長躬と堀川親方を加え、知行国主から藤原家時を削除し、中御門某を西園寺公衡に修正し、大覚寺統系と持明院統系の区別を明確化した。

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