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2018年2月25日 (日)

鎌倉初期の隠岐国司3

 正治元年(一一九九)九月二三日の除目では藤原宗明の子成行が隠岐守に補任された。この年に成行の祖父藤原実教は正二位権中納言の補任されている。知行国主は三条実国の嫡子公時で、その母である女性と実教は兄弟であった。翌二年七月二八日には中原師尚の孫師季が隠岐前司としてみえるが、その在任期間は宗明の前であろう。次いで建仁二年(一二〇二)一月三〇日の除目では藤原範光の子範基が出雲守に補任された。範基は治承三年(一一七九)の生まれで二四才。父は四九才であり、建仁元年には従三位、翌年には参議となっており、知行国主であった可能性が高い。
 元久二年(一二〇五)閏七月には北条時政が失脚に追い込まれ、京都守護であった女婿平賀朝雅が幕府が派遣した御家人により殺害されたが、関係系図には派遣された人物として「隠岐前司親重」がみえる。『吾妻鏡』『玉葉』にはその名がみえず、江戸親重や元久二年に対馬守に補任された源親重との関係、その補任時期も不明である。
 翌元久三年(一二〇六)二月二八日に隠岐守としてみえる藤原有通は承元二(一二〇八)年一一月一一日には対馬守(同月二七日に日吉祭に使者として派遣された対馬守有道も同一人物であろう)と、次いで建保三年(一二一五)二月二三日には前対馬守としてみえる。一方、承元元年正月一一日に藤原公国に替わって対馬国知行国主となった中山兼宗は、その前任が隠岐国知行国主であった。知行国主中山兼宗と国守藤原有通のコンビで承元元年正月に隠岐国から対馬国に遷任したものであろう。
 両者の間に血族・姻族としての直接的なつながりは確認できず、二国以外での国主・国守の補任もない。強いて言えば、両者の母方の曾祖父である為隆と顕隆は兄弟である。また、有通の姉妹が九条兼実の同母弟兼房の室となっている。兼宗は兼実が後鳥羽天皇の関白であった建久四年に蔵人頭、六年に参議に進んでおり、九条家を介して有通とつながった可能性も指摘できる。兼宗の父で日記『山塊記』を残した忠親は有職故実に明るく、平家との関係からその都落ち後一時的に昇進が停滞したが、その知識から文治元年に頼朝が吹挙した議奏公卿に選ばれた。その子兼宗も歌人として勅撰和歌集にその歌が選ばれている。九条兼実にも歌会を通じて接近した可能性がある。さらに言えば、中山兼宗の母方の祖父藤原光房は有通の祖父伊実の姉妹で近衛天皇の中宮となった呈子の中宮亮となっている。

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