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2018年2月15日 (木)

文永末~弘安初の出雲国衙3

 この確認をしたのは⑰がどうかと思ったからである。出雲国が持明院統の分国となったのに、なぜ後宇多院宣なのだろうかということだが、「右京権大夫」から判断したのだろう。花押カードデータベースでは平仲高に比定しているが、文書名はそのままである。仲高は正安二年正月一八日に「左衛門権佐」(勘仲記)、正安三年一一月二四日には「蔵人大夫・中宮大進」である。花押データベースには永仁四年八月日関白左大臣鷹司兼忠家政所下文の署判者中宮権大進平朝臣の花押も載せられており、これは同一人物のものと思われる。仲高は永仁二年三月一八日には「中宮権大進」であった。どうかと思っていたら「鎌倉遺文」のデータベースに正安四年八月二七日に「右京権大夫仲高」奉の文書(後伏見上皇院宣)があった。⑰は持明院統系の伏見か後伏見の院宣で間違いなかろう。二〇一五年刊の『出雲鰐淵寺文書』でも「伏見上皇院宣」としている。
 問題は知行国主四条隆親辞任後の出雲国が後深草院分国であり続けたかである。松江市史では西田氏が後深草院分国であったとの理解を示した。氏は文永一〇年末に隆親から経俊に知行国主が交代したとする。文永一〇年一二月三〇日に出雲守藤原顕家が得替していることが根拠であろう(公卿補任)。一方、『日本史総覧』には『勘仲記』建治二年七月二四日条に「前出雲守隆泰」がみえるとしている。これが誰でいつ出雲守であったかが問題である。四条隆親の甥隆行の子に隆泰(隆康)がおり、これと同一人物であろう。文永一一年九月一〇日に二六才で従三位に叙せられている。文永元年の出雲守は隆親の子隆良であり、文永三年四月日の出雲国司庁宣にみえる「大介藤原朝臣」も隆良であろう。隆泰は文永三年には中宮亮兼修理大夫で、建治二年七月の時点でも修理大夫であった。隆泰が文永三年の藤原朝臣である可能性も否定できないが、その場合、建治二年の時点であえて「前出雲守」と記す可能性は低いのではないか。次いで文永四年二月一日には藤原顕家が出雲守に補任されている。建仁年間に出雲守であった藤原顕俊の曾孫で(公卿補任)、文永一〇年末まで務めた。この後を継承したのが隆泰であったが、一年ほどで隆親が知行国主を辞して経俊に交替したのではないか。

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