koewokiku(HPへ)

« 鎌倉中期の出雲国司2 | トップページ | 鎌倉中期の出雲国司4 »

2018年2月14日 (水)

鎌倉中期の出雲国司3

 仮殿遷宮終了後の嘉禄三年(一二二八)一〇月四日には、一二世紀後半に出雲国知行国主であった藤原光隆の娘を母とする平有親が左中弁に補任されるとともに知行国主となり、同族と思われる平有時が出雲守に補任された。建久九年に高倉天皇の第二皇女範子内親王(一一七七~一二一〇)が土御門天皇の即位に伴い准母・皇后となった際に有親の父親国が皇后宮大進として仕えている。内親王は『平家物語』で名高い高倉天皇の寵姫小督を母として生まれたため平清盛に迫害され、藤原光隆邸で養育されていた。親国と光隆の娘との間に生まれたのが有親であった。そして守貞親王は内親王の二才下の異母弟であった。親国-有親は順徳天皇の即位以来不利な立場に置かれた範子内親王や守貞親王に仕えていたと思われる。
 寛喜元年(一二二九)一〇月九日の時点でも有親の見任が確認でき、同年(一二二九)一一月から正殿造営が開始された。有親の一回目の任期が終了した寛喜三年九月八日に出雲守時通が公卿・勅使禄物について、杵築大社造営中である上に、作物の損亡が著しく、出雲国は負担できない旨、報告している。出雲守が平有時から藤原時通に交代しているが、大社造営中ということで知行国主は重任したのではないか。時通の父家通は難波頼輔の兄である忠基の子であるが、大納言藤原重通の養子となった。家通と藤原俊成の娘との間に生まれたのが時通である。本殿造営が軌道に乗るのは嘉禎二年(一二三六)以降で、国守交替の年である文暦二年(一二三五)九月に国造義孝が神主に補任されている。
 仁治元年(一二四〇)四月五日の除目で高階邦経が出雲守に補任された。邦経は知行国主平有親の子時継の妻(高階経雅娘)の兄弟であり、且つ大社本殿造営が続いているため、知行国主には変更がないと思われる。仁治元年一一月一二日には「出雲 蔵人佐時継、国務父入道沙汰也」とみえる。同年一二月二六日には杵築社功により出雲国衙在国司勝部昌綱が右衛門尉に補任されている。
 寛元二年(一二四四)正月二三日の除目で出雲守に補任された源範綱は貞永二年正月二八日の除目で従五位下、嘉禎元年正月二三日には知行国主石清水八幡宮のもとで因幡守に補任された経験を持つ。出雲守補任後の寛元三年正月一三日に右兵衞尉に補任され、寛元四年四月二三日にも出雲守の見任が確認できる。次いで杵築社遷宮終了後の宝治二年(一二四八)一二月二七日には藤原長時が出雲守に補任された。遷宮は終了したが、後処理が残っており、国守は任期満了で交替したが、知行国主は留任であろう。

 

« 鎌倉中期の出雲国司2 | トップページ | 鎌倉中期の出雲国司4 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 鎌倉中期の出雲国司3:

« 鎌倉中期の出雲国司2 | トップページ | 鎌倉中期の出雲国司4 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ