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2018年2月17日 (土)

出雲・石見国知行国主の補足3

 『花押かがみ』をみていたら、『勘仲記』弘安九年一二月一一日条に「石見前司定成」とある人物が、弘安五年七月から永仁元年一二月にかけて平仲兼奉書の奏者となっていることを確認した。弘安年間前半の石見国知行国主が平仲兼、ないしは仲兼が家司であった近衛・鷹司氏関係者である可能性が高くなった。建長年中に「定成」が甲斐守であったことが知られるが、文永一一年一二月二〇日には仲兼が甲斐守(兼民部太輔)に補任され、弘安元年二月八日に去任となっている。次いで弘安三年六月二五日に五位蔵人、七月一一日に兵部権大輔に転じ、弘安八年三月六日に右少弁となっている。公卿となるのは正応五年だが、正応元年(一二八八)一〇月二七日には備後国知行国主であったことが知られる。
 仲兼の子が「文永末~弘安初期の出雲国衙3」で述べた「仲高」で持明院統系の人物である。一方では正応三年一二月日関白前右大臣近衛家基家政所下文には「別当中宮亮平朝臣」として署判を加えている。『勘仲記』弘安六年七月二〇日条を確認すると、小除目の「石見守 藤重氏」の前に「甲斐守平康仲」がおり、そこには「仲兼国務」と注記があった。この時に仲兼は甲斐国知行国主であり、それは石見国知行国主からの遷任であったと思われる。結果として、六年七月二〇日まで平兼仲が石見国知行国主で、国守が定成であった。
 正応元年(一二八八)から四年にかけての「石見守」安倍朝臣の花押は、嘉元元年(一三〇三)八月二二日前石見守某奉書(某御教書)の花押と一致する。また前石見守は徳治二年(一三〇七)七月一二日後宇多上皇院宣(『鎌二三〇〇七』)の宛所としてみえる「石見前司」とも同一人物であろう。院宣では大和国山口庄の相伝について安堵したことを伝えている。この庄園では相論が発生した際に、摂関家氏長者宣で安堵がなされており、摂関家と深い関わりを持った庄園であり、「石見前司」は摂関家家司であったと思われる。徳治二年時点の藤氏長者は、正応四年に三条実重に代わって石見国知行国主となった二条兼基である。とりあえず、この線で嘉元元年の出雲国知行国主の花押の主を再検討したい。

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