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2018年2月 9日 (金)

鎌倉中期の石見国司3

 寛元三年四月八日に源有長が播磨守に補任された。この有長は嘉禎三年八月一九日から仁治元年正月一日まで播磨守の現任が確認できるが、仁治元年一一月二四日には「播磨前司源有長」とみえ、一旦退任した後に、寛元三年に復任した。寛元四年に源定通のもとで播磨守であったのは「能季」であり、播磨守は交代している。能季は大中臣能季であり、寛元三年一二月二二日には除目で左衞門尉に補任されていた(平戸記)。
 源有長は承久二年一〇月二日から翌三年閏一〇月一九日に土佐守の現任が確認でき、承久の乱の影響は受けていない。嘉禄元年二月一一日には左大将九条教実の拝賀に続く着陣の儀式が行われたが、そこに有長がみえる。これに先立つ二月三日には八日に九条道家が九条第で行う詩会の準備が行われているが、有長が好みの歌人を書き出しており、有長は九条家の関係者であった。定通の前任の知行国主も九条道家かその子弟であろう。土佐国も建永三年四月四日の九条兼実から健保三年六月一一日の九条道家を経て嘉禄二年正月二七日の教実まで、知行国主として確認できるのは九条家の人々である。寛元四年の定通の播磨国知行国主は九条道家失脚の結果得られたものであった。
 宝治元年(一二四七)一一月八日に石見守に現任している「清継」は藤原清継で、寛元三年(一二四五)四月八日の除目で中務丞に補任されており、石見守となるのはこれ以降の事である。富永氏はこれを大中臣清継に比定しているが、別人である。『公衡公記』によれば清継は建長年中には石見国知行国主であったが、国守は欠となっていた(鎌倉遺文二一四一八)。翌宝治二年一一月二二日に徳大寺実基が石見国知行国主に現任し、建長六年(一二五四)八月日徳大寺実基家政所下文の署判者として石見守藤原朝臣がみえるが、清継とは別人であろう。実基は宝治元年七月八日の時点では長門国知行国主であり、次いで石見国知行国主となり建長七年一一月二〇日の時点でも石見国知行国主であった。その後、清継が知行国主となった。

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