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2018年2月 9日 (金)

鎌倉中期の石見国司2

 寛元二年一〇月四日の小除目に石見守平繁氏、寛元三年一二月二二日の臨時除目で石見守平忠允が石見守に補任されているが、両者ともこれ以外の国で国守となったことは確認できない。寛元四年一一月二八日には「前石見守中原友景」が関東申次西園寺実氏の使者として関東に下向し、一二月八日までに帰洛したが、再度派遣され一二月二四日夜に帰洛している。友景が石見守であったのは平繁氏の前であろう。友景の時の知行国主は西園寺実氏であろう。九条道家は実氏の姉妹である掄子が正室であったが、これ以降、両者の動向は明暗が分かれる。宝治二年七月一九日に下北面一一名が所領を与えられているが、中原友景等六名は播磨国で所領を得た。播磨国は後嵯峨院の分国だったのだろう。伊予国では三名に対して三箇所が知行国主西園寺実氏から与えられている。丹波国と備中国では各一箇所が後嵯峨院から与えられた(葉黄記=葉室定嗣の日記)。
 富永氏は寛元四年に後嵯峨天皇が即位すると、定通が石見国から播磨国知行国主に転じたとされたが、これまでみてきたように寛元四年の時点で定通は石見国知行国主ではなかった。天福元年の四年後の嘉禎三年には知行国主は交代したと思われる。西園寺実氏のもとで中原友景が寛元二年一〇月まで石見守であった。寛元二年八月二九日に実氏の父公経が亡くなると、関東申次は九条道家が独占したという。
 初代六波羅探題泰時は定通室の異母兄である。泰時の嫡子時氏が病となったため、その後任として寛喜二年(一二三〇)に六波羅探題北方となった重時は定通室の同母兄であったが、定通の復権は仁治三年(一二四二)に四条天皇が急死し、後嵯峨天皇が即位してからである。そして播磨国知行国主定通は宝治元年九月に六〇才で死亡した。それを受けて後嵯峨院の分国となったのだろう。

 

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