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2018年2月21日 (水)

長海本庄地頭持明院基盛2

 仁治元年閏一〇月に隠岐守系の行氏が父元行の所領肥前国鏡社、伊勢国益田庄、尾張国西門真庄、参河国重原庄、相模国懐島内殿原郷、 陸奥国信夫庄内鳥和田村等地頭職の継承を安堵されている。元行には嫡子行義に譲った所領もあり、これに政所執事を継承した二階堂氏の所領を合わせれば、二〇ヶ所以上となったと思われる。長海本庄も鎌倉初期に二階堂行政が与えられた所領である可能性が高い。
 「隠岐守」が誤りであるとしたが、基盛の「基」に着目すると、「頼行」が誤りである可能性も無視できない。すなわち「隠岐守行氏」の娘であり、基盛は二階堂氏領を継承した関係で曾祖父基行(元行、仁治元年死亡)にちなんでその名を付けたと。隠岐守系ならば、隠岐国や出雲国に所領を与えられる可能性はより高い。現時点では後者の説を有力としておく。行氏は弘長三年まで引付衆であったことが確認できる。持明院基盛が吾妻鏡に登場するのは文応二年(一二六一)三月二五日条の「持明院少将基盛」のみであるが、この時点で一五才とすると、祖父が行頼ならば二一才しか違わないことになるので、やはり「隠岐守行氏」の娘が基盛の母である。行氏は『吾妻鏡』には建長四年四月三日の格子番に「隠岐三郎左衞門尉行氏」が初見である。同上には「筑前次郎左衛門尉行頼」もみえるが、行頼の父行泰が二階堂行政の曾孫であるのに対して、行氏の父基行は行政の孫であり、行氏の方が一世代早い。
 ただし、基行は建久九年(一一九八)の生まれであり、行氏が基盛の祖父というのも無理がある。残された可能性は基行の娘が基盛の母であろう。これならば、基盛は祖父基行領を継承して、その名前にちなんで基の字を付けた。仁治元年に行氏が譲られた所領に長海本庄がないことも理解できる。当初は行頼の子であることから長海庄本庄を得たことを述べるためにこの文を書き始めたが、結果として長海本庄は二階堂隠岐守基行からその娘に譲られ、さらに娘の子である持明院基盛が継承した。これならすべてが説明でき「完璧」ではないだろうか。迷走したが納得である。
(追記)なお、文永四年に基盛が安堵された母の所領に長海本庄がないことの説明が不十分である。これを勘案すると、基盛が将軍宗尊親王に近侍する中で長海本庄を得たとすべきであろう。二階堂氏領であったとの見解は撤回するが、鎌倉初期に平家没官領として幕府の支配する所領となったことは問題はなかろう。
 また基盛の父家定は承久の乱の直後の一一月二一日の除目で正五位下に進んでいるが、少し前の閏一〇月一〇日の大臣大饗では「持明院右兵衛佐家定」として弦楽器箏の演奏を行っているように、九条家との関係を有す一方で楽曲の名手として知られていた。これが関東下向の背景であったと思われる。嘉禎四年の将軍頼経の大納言拝賀に従う殿上人の一人として「左中将家定朝臣」がみえる(玉蘂=九条道家の日記)。

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