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2018年2月28日 (水)

鎌倉末期の出雲国司2

 話を出雲国司に戻すと、問題となるのはいつまで亀山院分国であったかである。弘安六年(一二八三)三月二八日には入道少納言平輔兼の子兼有が出雲守となったが、年末の一二月二〇日に少納言となるとともに出雲守を辞し、翌年には昇殿を認められている。兼有は永仁五年の宮内卿補任をへて正和元年閏六月九日に従三位に進んで公卿となった。持明院統寄りの経歴である。兼有の後任者は不明であるが、辞任半年後の弘安七年七月二六日には平忠俊が出雲守に補任されている。この人物についても関係史料がなく不明である。それは同日に日向守となった藤原惟房についても同様である。院の北面ないしは外記系の人々であろう。
 『勘仲記』正応二年三月二日条には御書所始があり蔵人佐俊光が奉行を行い、覆勘として前出雲守長躬朝臣がみえる。これに先立ち弘安七年三月二〇日には地下儒士として長躬がみえる。(下別当儒士交名)。長躬も持明院系の人であろう。正応四年正月の除目では従四位上に進んでいる。同年六月二四日の北野社法華堂供養には御布施取殿上人として仲兼・俊光とともに菅長躬(大□司)がみえている。
 正応二年(一二八九)四月二一日胤仁親王(後伏見)立坊定文の三日目の饗に「警陣 出雲 惟賢」とみえ、某惟賢が出雲守であった。二日目の饗には「警陣 伯耆 長隆」とあり、葉室長隆が伯耆守であったが、四才にすぎず、父葉室頼藤が伯耆国知行国主であった。惟賢については他の情報がないが、持明院統の院に仕える北面ではなかったか。
 永仁四年(一二九六)か五年に比定できる二月一八日九条忠教御教書の奏者として前出雲守親方がみえる。堀川俊嗣の子親方である。御教書は蔵人頭兼兵部卿である堀川光泰に宛てて出され、二月二八日に光泰が奏者となる伏見天皇綸旨が出されている。光泰は石見守光世の兄で、親方の従兄弟である。親方は正和5年には氏長者の御教書の奏者としても「治部卿親方」がみえる。親方が出雲守であった時期も出雲国は持明院統が支配していた。
 後二条天皇の即位に伴い、正安三年(一三〇一)正月一六日には知行国主が藤中納言日野俊光から中御門為方に交代しているが、いずれも持明院統系の公卿である。為方は土佐国からの遷任である。嘉元元年(一三〇三)四月一一日にも為方の現任が確認でき、国守は橘宗成である。宗成は『勘仲記』正安二年一月二〇日条には「壱岐左近大夫」とみえ、本人は橘氏の系図にはみえないが、弘安七年一一月に壱岐守の現任が確認できる橘邦範の子ないしは関係者であろう。その後、嘉元元年八月二二日の時点では問題の某(西園寺公衡であろう)が知行国主であった。次いで嘉元三年一二月三〇日には藤原致連が出雲守に補任されているが、公衡は同年閏一二月二二日に伊豆国と伊予国の知行国を召放たれているが、同時期に出雲国も失ったのではないか。伊豆国は花山院師信に、伊予国は九条師教に交替している。公衡は徳治元年二月二〇日に勅免となり、伊予・伊豆国の御厨については返されている。後任の国司藤原致連については全く関係史料を確認できていない。

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