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2018年2月15日 (木)

文永末~弘安初の出雲国衙2

 時継は後深草系の公卿であるが、伏見が皇太子となってもその立場に変更はなかった。何が言いたいかと言えば、吉田経俊と平時継が知行国主となった時期には院分国ではなかったという点である。時継はあくまでもその経験を買われての知行国主起用であったが、何もできないまま任期四年(一二七七~一二八一)を終え、その後出雲国が亀山院の分国となったのではないか。院分国となると国衙領の税は政府ではなく院のものとなるというが、より具体的にはそれぞれの公領が院の関係者に配分される。これに対して知行国主の交替はそれほど影響しない。弘安年間に亀山院の分国となったことで、後深草院は文永年間に祇園社に寄進した長江郷の扱いが心配となり、別の国の代替地を寄進した。しかし、長江郷の祇園社への寄進は亀山側も継承した。その後、正安三年には分国主は大覚寺統から持明院統に移動し、知行国主も日野俊光から藤原為方に交替した。漆治郷では交替の際に問題も起きた。文永年間に出雲国が後深草院の分国となったのは亀山天皇のもとで後深草が不利な立場になった時であった。正安三年も天皇が持明院統の後伏見天皇から大覚寺統の後二条天皇に交替し、伏見院政から後宇多院政に替わった時期であった。不利な状況となった持明院統の分国になった点では文永年間と同じである。
 正安三年正月二一日に後二条天皇が即位し、父である後宇多が院政を開始したが、この時点では後深草・亀山・後宇多・伏見・後伏見の天皇経験者五名が健在であった。鎌倉遺文でみると、正安三年①正月二四日伏見上皇院宣、②三月二日伏見上皇院宣、③三月二日亀山上皇書状?(院宣)、④三月一三日伏見上皇院宣、⑤四月二七日後宇多上皇書状?(院宣)、⑥六月三日伏見上皇院宣、⑦六月一〇日亀山[後宇多]上皇院宣、⑧六月二一日伏見上皇院宣、⑨七月九日伏見[後宇多]上皇院宣、⑩七月二二日伏見[後伏見]上皇院宣、⑪七月二九日伏見上皇院宣、⑫七月二九日後宇多上皇院宣、⑬八月一二日後宇多上皇院宣、⑭八月一九日伏見[後宇多]上皇院宣、⑮八月二九日伏見上皇院宣[なし]、⑯九月一三日後宇多上皇院宣、⑰一〇月四日後宇多[伏見]上皇院宣、⑱一〇月五日後宇多[後深草]上皇院宣、⑲一一月二八日伏見上皇院宣、⑳一二月二一日後深草上皇院宣等がみえる。院宣の発給者の特定は困難で将来見直されそうなものもありそうであり([]内は史料編纂所日本古文書ユニオンカタログによる、遺文未掲載もあり)、あくまでも目安だが、院政を開始した後宇多院とならんで持明院統の伏見院のものも多い。また後醍醐天皇綸旨と同様に年号を記したもの、付年号のものが多数派である。

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