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2018年2月 9日 (金)

久永庄と出羽郷の堺相論2

 問題となるのは⑥年未詳八月二三日伏見天皇綸旨である。鎌倉遺文には「正応四年ヵ」として宛所の「右大将」を三条実重としているが、実重は右大将に補任されたことはない。また奏者の「右少弁経守」は「左少弁」が正しい。早稲田大学図書館のHPで当該文書の画像をみることができるが、「左」少弁と「右」大将の字形の違いは明らかである。高倉経守の関係史料をみると、正応四年一月一四日には「左衞門権佐」で、これが正応五年九月二六日には「左少弁」に変わったことが確認できる。正応四年の可能性は排除されないが、問題は「右大将」である。これを三条実重に比定したように、この時点の石見国知行国主であることは正しい。正応四年ならば内大臣二条兼基が兼務しており、五年以降ならば権大納言花山院家教である。
 一方、石見国司関係史料として、⑦正応元年一一月日関白前太政大臣家政所下文の署判者として「石見守安倍朝臣」がみえる。この時点の関白は九条忠教で、前太政大臣は鷹司兼平で悩ましい。鎌倉遺文は鷹司兼平とし、史料編纂所の花押カードデータベースでは九条忠教に比定している。同年八月一一日に関白が兼平から忠教に交代しているが、忠教は太政大臣に補任されていないので、兼平とすべきであろう。「前関白前太政大臣」とあれば正解なのだが。そして⑧正応四年七月日関白左大臣家政所下文の署判者に「前石見守安倍朝臣」がみえる。これは九条忠教で問題なく、⑦と⑧の花押を確認すると両者は同一人物である。すなわち⑧以前に石見守は交代し、同時に知行国主も交代した可能性が大である。一〇〇%までは断言できないが、⑥は正応四年で右大将は二条兼基であろう。ここから四年前の正応元年に三条実重が知行国主となったことも推測できる。
 ⑥では打渡に対して「善願」が狼藉を働いたことが記されている。出羽郷の地頭か郷司かは不明であるが、現地で所領支配にあたっていた武士であろう。以上、正応四年に知行国主三条実重・国守安倍朝臣某から知行国主二条兼基・国守某に交代したことが明らかになった。鷹司兼平は正応三年に出家・隠退しており、実務家安倍朝臣某は兼平の子ではなく、同じ摂関家である九条忠教の政所に再就職したのであろう。

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