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2018年2月25日 (日)

鎌倉初期の隠岐国司2

 次いで学問の家中原氏出身の大外記師尚が文治六年(一一九〇)一月二四日に隠岐守に遷任してきているが、前任の国守については明らかではない。建久三年(一一九二)正月の除目で隠岐守は辞任し、その三年後の建久六年二月には対馬守に補任されている。隠岐国の前任である某国を含めて三ヶ国の国守経験があった。建久二年摂政前太政大臣九条兼実家政所下文の署判者に隠岐守中原朝臣がみえるように、九条家と密接な関係を有していた。
 『玉葉』建久四年一二月九日条で摂津国と隠岐国の受領功過について述べられているが、この時点の摂津守は建久六年正月二〇日に摂津守現任が確認できる源長俊である可能性が強い。建久八年正月二〇日の除目で中原師直と交替しているが、隠岐守であった師尚と同一人物であろう。ただしこの年の五月二日には死亡している。その死亡に際して藤原定家は大外記としての器量は文治五年に死亡した清原頼業には及ばないとコメントしている。外記は七位相当の少外記と六位相当の大外記からなり詔勅を作成し、儀式・公事の奉行を行い、先例を調査し上申した。
 源長俊は摂関家家司である季広を父とする。祖父季兼は石見守・対馬守を知行国主藤原忠通のもとで務め、各地で摂関家領の立券に貢献した。季広は当初松殿基房の職事になったが、源義仲とともに基房が没落すると、九条兼実の家司となった。それを継承したのが重俊であった。隠岐知行国主は九条兼実であろう。
 建久五年(一一九四)一月三〇日の除目で隠岐守に復任したのは讃岐守の経験を持つ藤原重季であったが、これ以前の隠岐守補任の時期は不明である。重季は受領を歴任した季行の子で、その姉妹には九条兼実の室となった女子がおり、重季の孫娘が近衛家実の室となったように摂関家との関係が強かった。建久九年(一一九八)二月の即位叙位では九条兼実の娘である中宮宜秋門院御給により正四位下に除されている。この時点では隠岐守は後述の中原師季に交替していたと思われる。建久年間の隠岐国知行国主は九条兼実、ないしはその一族であろう。

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