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2018年2月 5日 (月)

知行国主源定通2

 寛喜二年(一二三〇)七月には大神宮役夫工・神宝用途が闕如するため、重任の功を募っている。安房国知行国主になったばかりの源顕平は新任であるのに重任の功を進めると申し出たが、土御門定通は石見の知行国主となって以来、成功を進めていないので、この功を進めるべきとの意見を藤原定家が掲載している(明月記)。すくなくともこの年以前に石見国知行国主となっていたことがわかる。
 寛喜三年に比定される九月一一日書状(請文)で石見守忠長が公卿勅使禄物について、去年と今年の石見国の状況は大変悪く計略のしようがないと述べている。全国的な寛喜の飢饉の最中であり、石見国も同様であった。出雲守藤原時通も九月八日の請文で損亡が地を払うほどである上に大社造営のため出雲国は公卿勅使禄物のような召物は免除されるはずだと述べている。
 天福元年六月一七日には炎旱のため降雨を祈る儀式を行うこととなり、その用途を定通(石見)、新宰相平有親(出雲)、二条前中納言藤原良美(伊賀)、知宗(伊勢)の知行国に課すとともにその他の任官功(成功)を充てるとしている。
 選ばれた国の飢饉の状況が相対的に良かったという仮説は忠長請文からみて成り立ちにくい。出雲国をみると、安貞元年(一二二七)一〇月四日に平有親が知行国主、その子有時が出雲守に補任されている。すると四年後の寛喜三年が重任の時期となる。伊勢国も同様に鷹司(摂関家とは別)伊平卿のもとで藤原資広が国守に補任されている。ここに源定通の名がみえないのは、その四年前である貞応二年(一二二三)以前には知行国であったことになる。それと承久三年一二月に大中臣忠長が石見守に補任されていることを併せて考えると、その時点の知行国主は定通となろう。そしてそれは承久の乱以前に遡る可能性が強いが、国守については交代させて忠長を補任しただろう。建保元年(一二一三)正月に藤原範宗が国守に補任されたが、翌二月には解任された可能性が高いことを述べた。知行国主であろう範光も同年四月五日に死亡している。その後院分国となり藤原信盛が石見守となり、源定通は四年後の建保五年に石見国知行国主となり、承久三年に重任したのであろうか(定通については訂正)。

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