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2018年2月14日 (水)

鎌倉中期の出雲国司2

 家行の死により藤原親信の子で琵琶の名手として知られた二条定輔が知行国主となった。国守は義清のままではないか。定輔も嘉禄二年の時点ですでに六四才であり、貞応二年二月には出家している。琵琶の才のみで政治的手腕はなかったとされており、当座の措置としての起用であろう。
 従兄弟である坊門信清は後鳥羽院の叔父で(建保四年死亡)、その子忠信が上皇方の大将軍として出陣したため、承久の乱の影響は避けがたく、関係者として一旦は恐懼に書せられた。同母弟親兼の子信成は坊門忠信の養子となり、建保六年一二月九日には参議、承久三年一月五日には正三位に進んだが、乱後の一二月に参議を停止された。隠岐に配流された後鳥羽院は暦仁二年(一二三九)二月九日に、出雲国島根郡加賀庄と持田庄等の所領を信成の子親成に譲ることを記した置文を作成している。親成の母は吉田経房の子定経の娘であった。
 定経は建久八年(一一九七)には参議、正治元年(一一九九)には従三位に進んだが、同年に四二才で突如出家した。これにより経房は定経を義絶し、定経の子で一九才の資経を後継者とした。父信成と母方の祖父定経が失脚・出家したことは親成にとって大変不利な状況を生んだ。信成は建久八年の生まれであり、その室となった定経の娘は出家前後の生まれであろう。後ろ盾のない親成は隠岐に配流された後鳥羽院に一八年間にわたって奉公したが終生無官であった。これに対して弟信氏はその母は不明だが、兄とは異なり任官し従四位下侍従に進んだ。父信成も弟信氏を寵愛していたため、後鳥羽は親成に離宮のあった摂津国水無瀬で自らの菩提を弔ってもらうことを期待しているが、自らの意志に反して所領が信成に譲られてしまうことを危惧している。親成の子良親は従四位下侍従に進み、孫具良は非参議公卿(文保二年に治部卿・正三位)となって水無瀬家が続いていくが、公卿補任(延慶三年)では具良(元弘元年に六三才で死亡)を信氏の孫とする。
 定輔も建久二年に従三位、正治二年に参議、建仁二年権中納言、元久二年中納言、承元三年四月一〇日には四七才で権大納言に進んだが、土御門天皇が退位し、順徳天皇が即位した直後の承元五年正月一八日に辞任した。建保五年に五五才で大宰権帥となった理由は不明である、前任で四六才の四条隆衡が五ヶ月で辞任したことが関係していよう。承久の乱後の七月二〇日に恐懼、閏一〇月九日には出仕も免ぜられた。一二月一〇日には許されたが大宰権帥は辞任した。後任は補任されず、代わりに大宰大弐に五九才の藤原親輔が補任された。翌年には天皇の勅により本座への復帰をみとめられ、貞応二年二月一七日には出家したが、家行死亡後の嘉禄二年には出雲国知行国主となった。翌嘉禄三年七月九日に六五才で死亡した。一方、嘉禄二年三月から仮殿造営が本格化。七月には出雲政孝が神主に補任され、翌年七月には仮殿遷宮が行われた。

 

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