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2018年2月28日 (水)

鎌倉末期の出雲国司1

 弘安四年(一二八一)に亀山院の分国となったことは祇園社の記録から明らかであるが、その時点の知行国主と国守については確認できない。松江市史で示された「侍従三位」は知行国主ないしは国守ではなく、漆治郷の領家に関わるものである。また、弘安四年時点の侍従三位も藤原家時ではなく一条能清である。
 能清は一条家当主頼氏と六波羅探題北条時房の娘との間に嘉禄二年(一二二六)に生まれている。頼氏の父高能は建久九年(一一九八)に二二才で死亡し、頼氏には二人の兄がいたが、外祖父が松殿基房であったこともあって当主となった。嘉禎元年には正四位下右兵衛督となり、翌四年に従三位に進んで公卿となった。一条氏関係者が多数かかわった承久の乱の際は京都を脱出して鎌倉へ逃れた。その長子能基は時房の娘を母に承久二年に誕生しており、乱以前に北条氏関係者ともなっていた。貞応三年に北条義時が死亡した際には後室伊賀氏が頼氏の叔父実雅を将軍に擁立しようとしたともいわれ、実雅は越前に配流されたが、頼氏は荷担していない。ただし頼氏は宝治二年に死亡した際にも非参議であった。延応二年五月一二日に将軍御所で行われた歌会にも「一条少将」(この年に左近衛少将)能清がみえる。
 なぜ一条氏について述べるのかと思われるであろう。能清は嘉禎二年(一二三六)八月四日に将軍頼経が若宮大路に新造された御所に移った際に付き従う人々に「一条大夫能清」がみえるように、一一才であるこの時点で鎌倉に祗候していた。頼経の父九条道家の母は一条能保の娘であった。建長三年一月一一日に将軍頼嗣が鶴岡八幡宮に参詣した際に同行した殿上人にも能清がみえる。翌年二月に頼嗣は将軍を辞職させられ京都に戻ったが、宗尊親王のもとでも能清やその兄能基、弟定氏、さらには能清の子公冬が鎌倉で活動している。ただし朝廷での官位の上昇は遅れ、公冬や能基の子公仲は叔母の夫である洞院実雄の猶子となり、正応二年並びに嘉元四年に非参議従三位に進んでいる。ちなみに公冬の父能清は文永六年、その兄で公仲の父である能基は文永五年に従三位に進んでいる。
 北条時輔の外祖父の補足記事で、,三浦(佐原)氏一族の女性が最初は真野宗連と結婚し、後に一条左衛門督実遠の後室となったことに触れたが、実遠は一条公冬の子である。公冬の養父となった洞院実雄の名をとって実遠と名乗ったのであろうか。御家人真野一族の女性が一条実遠の室となったのも、実遠の父までは関東祗候の殿上人であったためであろう。

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