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2018年2月 9日 (金)

久永庄と出羽郷の堺相論1

 この問題については二五年前に「中世史四題」(矢上高校研究紀要一九九三)で述べたことがあった。読み返してみると、正応四年(一二九一)二月一六日伏見天皇綸旨案に何故か(一三〇一)と注記をしており、我ながら驚かされるが、現時点での分析を述べてみたい。石見国知行国主の問題と関係してくるからである。
 残っている関係史料として最も早い時期のものは①正応二年五月二六日後深草上皇院宣である。賀茂神主久世から出羽郷により久永庄の領域が押領されているとの訴えを受けて、朝廷は訴えが正しいと判断し、国司に所領の打渡を命じている。国司請文と武家状が具書としてみえ、事実確認に国衙と守護が対応したことがわかる。
 ところがこれで一件落着とはならず、打渡は実現しなかったようで、再度の賀茂神主の申状をうけて、②正応四年二月一六日には伏見天皇綸旨が出され、「三条大納言」に打渡の実行を命じている。年号は月日の右肩への追記と端裏によるが一連の史料であり、問題はない。知行国主三条実重も他の関連史料からみて問題はない。正応元年一〇月二七日に右大将久我通基が内大臣となり、その大饗の記録に「三条大納言実重卿」が石見国を知行していることが確認され、翌年二月一三日にも見任が確認できる。実重は正元元年(一二五九)の生まれで正応元年には二〇才であるが、父公親は正応五年に七一才で死亡している。実重の姉妹には幕府将軍久明親王(後深草院子)の母である三条房子がおり、伊予国弓削島庄地頭にもなっている。
 ②を受けて前伯耆守光経奉書(三条実重御教書)が③二月二四日(宛所なし、綸旨と石見国司庁宣を国衙に送付したもの。国司庁宣そのものは残っていない)と④二九日(石見国目代宛に打ち渡しの実行を命じたもの)に出されている。そして⑤三月二日には目代と思われる右衛門尉国重から石見国惣田所に命令が伝達されている。光経は源光経で弘安一〇年には対馬守であったことが確認できる。

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