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2018年2月 9日 (金)

鎌倉中期の石見国司1

 富永氏は定通は寛元四年(一二四六)まで石見国知行国主であったと考えられたが、根拠はあるのだろうか。定通は嘉禎二年(一二三六)六月九日には内大臣となったが、翌三年一二月一八日には四条天皇の蔵人頭であった嫡子顕定を参議にするため、内大臣を辞している。四条天皇は母が九条道家の孫であり、顕定は親九条派であったのだろうが、仁治三年(一二四二)正月の四条天皇の死と後嵯峨天皇の即位は顕定の立場を飛躍的に強化した。ただ、その出世の壁となったのは寛元四年に太政大臣となるとともに関東申次となった西園寺実氏であった。この年の七月には九条頼経が将軍を隠退させられるとともに、九条道家も後嵯峨天皇を廃して後鳥羽院の子雅成親王を擁立する隠謀に関わったとして失脚した。同年五月以来の名越氏ら将軍派とされた御家人が排除された宮騒動にともなうものであった。定通の子顕定は建長二年(一二五〇)一一月一六日に因幡国知行国主となっている。一〇月二四日にみえる因幡守長氏もここで交代したと思われる。
 この時期の石見国司については、仁治二年(一二四一)八月二五日に幕府が大倉北斗堂供養を行った際に「江石見前司能行」がみえる。大江能行である。安貞二年(一二二八)一〇月までは兵衞尉であったがそれ以後、石見守に補任されたのであろう。その時期を考える材料となるのが、能行の娘を母とすると思われる武藤資能が貞永元年(一二三二)八月一三日の時点で「石見左衛門尉資能」と呼ばれている点である(吾妻鏡)。「石見」は大江能行が石見守であったことに由来するもので、これ以前に能行が石見守に補任されていたことを示す。資能はこの時点で三五才であり、その母方の祖父大江能行は七〇才前後には達していたと思われる。ちなみに父武藤資頼は四年前に六九才で死亡している。建長五年に比定できる八月一六日書状で六波羅探題北条長時が石見前司に対して、春日社の神鹿の問題に関して訴えについて使者行嗣と掌然に尋ねた結果を朝廷側に伝えるよう依頼している。『鎌倉遺文」は「石見前司」を大江能行に比定しているが、西園寺実氏の側近である中原友景であろう。

 

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