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2018年2月24日 (土)

後醍醐天皇と毛利氏1

 鎌倉時代の毛利氏が宝治合戦で大きな負の影響を蒙ったことはよく知られているが、後醍醐天皇との関係は知られていない。強いていえば南北朝期に幕府方として活躍した毛利元春の父親衡(親茂)が何故か南朝と結ぶ動きを示して子元春と対立していたことであろう。実際に動乱が始まった時点では一四才であった元春を除く毛利氏一族のほとんどすべてが南朝方であった。その背景を毛利氏の娘を室とした公卿を通してみていきたい。
 花山院忠経という公卿がいた。花山院忠雅と平清盛の娘を母として承安三年(一一七三)に生まれており、それだけでも特別だが、さらに忠経は一条能保の娘と葉室宗行の娘との間に子をなしていたことが確認できる。一条能保の室は源頼朝の同母姉妹であり、多くの所領を得ていた。
  忠経の人生を暗転させたのは承久の乱である。能保の子信能と尊長、ならびに宗行本人は乱への関与によって処刑された。忠経自身は建保元年(一二一三)に出家し、それほど影響を受けることなく寛喜元年に五六才で死亡しているかにみえる。出家したのは能保の娘を母とする嫡子忠頼が一五才で同年に死亡したためであろう。その後嫡子となった宗行の娘を母とする経雅は、生年は不詳であるが、父に先立ち嘉禄元年(一二二五)に死亡している。
 経雅の同母弟である師継は乱後の貞応元年(一二二二)の生まれであるが、毛利季光の娘との間に建治元年(一二七五)には師信が誕生している。時に五四才であり、師信以外に六人の子(母は不詳)が確認できる。季光の娘の生年は不明だが、父季光は宝治元年(一二四七)六月の宝治合戦で妻の兄弟である三浦泰村方となり討たれているので、娘は遅くとも宝治二年までには生まれていたことになる。師信を生んだ時点では三〇才前後であろうか。父季光は死亡時四六才であった。季光の娘(姉)には北条時頼の正室とされる女性もいたが、乱により離縁されたと言われる。時頼と同年齢とすると宝治合戦の時点では二一才となる。季光の男子で生き残ったのは戦国大名毛利氏の祖となる経光と公家社会を中心に活動した師雄であった。経光は毛利氏領の一部の継承を認められたが、幼少であった女性は師雄とともに育ち、花山院家に仕えるようになったと思われる。師雄の名前は花山院師継の一字を与えられたものであろう。これらを勘案すると師雄と師継の室の女性の母は三浦義村の娘以外の人物であろう。

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