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2018年2月14日 (水)

鎌倉中期の出雲国司1

 承久の乱後の出雲国知行国主としては、嘉禄二年(一二二六)二月一五日に死亡した前権中納言持明院家行が知られる。持明院基宗と上西門院帥局の子で、安元元年(一一七五)の生まれで、文治二年(一一八六)一二月一四日に上西門院の分国である備後国の国守に補任された。一二才であり、実質的には三二才の父基宗が国務を行ったと思われる。その後、淡路守、再度の備後守、紀伊守をへて建保六年(一二一八)一二月一四日に四四才で従三位・公卿となった。承久の乱への関わりは弱く、承久三年一二月一二日に参議に補せられている。この年に出雲国知行国主となったのではないか。そして一一月一六日に正五位下に補任された子家定が出雲守となった可能性がある。
 貞応二年五月一四日に守貞親王(後高倉院)が死亡すると、公卿の中で唯一左衛門督別当を「法皇御事」により一時的に辞しており、親王との関係がうかがわれる。守貞親王が持明院陳子(北白川院)との間に儲けたのが後堀河天皇であるが、陳子は家行の父基家の異母兄弟であった。
 嘉禄元年七月六日に家行が権中納言に補任された。そして同年一一月一九日には左衛門督別当を辞して二男基長を右少将とし、一二月二二日に権大納言を辞して、子家定が左中将に補任されている。後に家行の娘が将軍九条頼経の室となり、仁治三年七月四日に男子(頼嗣の異母弟)を生んでいる。子の家定は貞永二年(一二三三)正月二四日には分国主後堀河院のもとで播磨守に補任され、殿上人として京都で活動し、建長三年(一二五一)に死亡している。
 頼経の正室は二代将軍頼家の娘竹御所であったが、天福二年に三三才で死亡した。これに対して、延応元年(一二三九)には藤原親能の娘大宮殿が五代将軍となる頼嗣を生んでいる。持明院家行の娘の母は親能の姉妹であった。文応二年三月二五日に宗尊親王近習としてみえる「持明院少将基盛」は家行の孫となるが、頼経室となった叔母との縁で幕府に仕えるようになった可能性が高い。
 嘉禄元年正月二二日には出雲国守護佐々木義清が出雲守に補任された。前任者は家行の子家定(月日は不明だが、この年に左近衛少将に補任される)であった可能性がある。貞応二年七月二八日関東下知状が出され、津田郷による朝酌郷の筌を押領を停止している。一一月二日にも関東下知状が出され、神門郡薗山新庄への守護使の入部を停止している。こうした中、義清に出雲守を兼務させて国衙の支配体制の再建を図ったのではないか。

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